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鎌倉の名刹・円覚寺の管長を務める 横田南嶺さん。 易しくも奥深い禅の言葉は、 与えられた命を精いっぱい 輝かせて生きる智慧に溢れています。 「刻苦光明必ず盛大なり」 横田南嶺(鎌倉円覚寺管長) 坐禅は古来安楽の法門と言われる。 決して難行苦行ではない。 千日回峯行のような 命の危険に関わるものではない。 それでも、お釈迦様が 12月8日の暁の明星を見て 悟りを開かれたことにあやかって、 禅門の修行道場では12月1日から8日の明け方まで、 横にならずに坐禅修行をすることが習いとなっている。 1日から8日までを1日と見做して、 布団を敷かず坐禅堂でひたすら坐禅に励む。 夜中の3時間ばかりは、 坐睡といって坐ったまま仮眠できるが、 それ以外は午前2時から坐り続ける。 12月8日を臘月八日ということから、 「臘八大摂心」(ろうはつおおぜっしん)と称している。 三度の食事は与えられるので それほどのことはないのだが、 大げさな表現で 「命取りの摂心」 (摂心は心を修めて修行すること) とも呼ばれている。 11月も半ばを過ぎると、 円覚寺は紅葉で全山が美しく染まり、 拝観客で賑わうが、 我々修行の世界に身を置く者は、 「ああ、今年も臘八が近づいた」と、 身の毛のよだつような思いになる。 紅葉をめでる気にはなれない。 そんな臘八の修行にあたって、 私は毎年必ず話すことがある。 一つは、中国の臨済僧・慈明楚圓禅師 (じみょうそえん)の逸話である。 楚圓禅師は汾陽善昭禅師(ふんようぜんしょう) のもとで修行していた。 汾陽禅師の名は厳令なる 家風で鳴り響いていた。 特に住していたのは汾州といって、 山西省にあって寒さも厳しい。 ある晩、とりわけ寒気厳しく、 多くの僧は夜の坐禅を休んでいた。 しかし、楚圓一人は夜通し坐って、 眠気に襲われると、 「古人刻苦光明必ず盛大なり」 (昔の人も皆、激しい苦しみに耐えて 大いに光り輝くものを得られた) と唱えて、錐で自らの股を刺し、 目を覚まして坐ったという。 その結果、大いに活躍される大禅僧になられた。 日本の臨済禅を代表する 江戸期の高僧・白隠慧鶴禅師(はくいんえかく)は、 修行時代の一時、自らの進路に迷われた。 進むべき道を求めて、 ある一冊の書物を繙いた。 諸天に祈りをささげて開くと、 この慈明楚圓禅師の逸話が目に入った。 白隠禅師はこうでなければならぬと 自らの肝に銘じた。 そして、 「古人刻苦光明必ず盛大なり」 という一語を胸に刻んで、 日に三度はこの語を唱えて修行に励まれた。 将来、大白隠と称えられるようになったのは、 この一語によるとも言われる。 この二つの話を、私自身修行時代に 老師方から幾たびも聞かされた。 今は毎年必ず修行僧たちに語っている。 そのたびに身の震えるような思いを禁じ得ない。 古来何の苦労もなく大成した者など居はしない。 古人も皆、刻苦された。激しい苦労に耐えられた。 刻苦した分だけ光るものがある。 いや刻苦そのものこそが 銘々の財産であり、光明なのだ。 自ら光り輝いてこそ 周りを照らすことができる。 |
2014/12/22 |
近年、コミュニケーション能力に 自信がないという方が増えているといいます。 「話し方をとおして一人でも多くの人に 幸せになってほしい」 上辺だけのスキルやテクニックを教えるのではなく、 考え方や心の持ち方に重きを置いているのが 日本話し方センターです。 61年という歴史の中で、 国会議員や経営者、主婦、学生に至るまで 30数万人もの卒業生を輩出してきました。 「言葉の前に心あり 言葉の後に行動あり」 島田浩子(日本話し方センター社長) 「話し方」指導という一つの道を 切り開いて61年。 日本話し方センターは1953年に 江川ひろしが、 「話し方をとおして一人でも多くの人に 幸せになってほしい」 という強い思いで創業し、 国会議員や経営者から主婦、学生に至るまで 30数万人もの卒業生を輩出してきました。 入社以来、私は35年にわたって 江川の秘書として仕えてきましたが、 江川の逝去に伴い、代表を継承。 2015年で13年目を迎えます。 これまでのビジネス人生を振り返って いま心に抱く思い――。 それはよい縁に恵まれ、 たくさんの人の言葉に助けられてきたということです。 もともと大手企業に勤めていた私が 転職したのは20歳の時でした。 動機は、当時あまり聞き慣れなかった 話し方教室に対する好奇心だけ。 いざ入社すると、職場は雑居ビルの一角で、 研修期間もない。 前職とのギャップに加えて、 小柄な江川が頼りなく見え、 初日からやっぱり辞めようと考えていました。 そんな私に転機が訪れたのは入社3日目。 突然江川から、 「セミナーにいらっしゃい」 と言われ、 ここでも好奇心に駆られて、 「最後に見てから辞めよう」 と軽い気持ちで参加しました。 ところが、です。 壇上で熱弁を振るう江川が、 普段の姿からは想像もできないほど 大きく立派に映るではありませんか。 そして、セミナー終了後、 50代と思われる受講者の方が、 「ありがとう。よいセミナーだったね。 あなたもこれから頑張ってね」 と、新米秘書の私に深々と お辞儀をしてくださったのです。 心打たれた私は「江川についていこう」と 決意したのでした。 もしあの時、江川が声を掛けてくれなかったら、 今日までのご縁はなかった。 そう思うと、江川には 感謝しても感謝しきれません。 話し方指導と聞くと、多くの方は スキルやテクニックを教えると想像されるでしょう。 しかし当社は、話し方とは性格や教養など、 その人のすべてが表れるという考え方に立ち、 「言葉の前に心あり。 言葉の後に行動あり」 というモットーを掲げています。 言葉ではいくらでも格好よいこと、 時には嘘だって言うことができてしまう。 だからこそ、言葉を発する前に 心が清らかであるかが重要であり、 言った後は行動で示さなければなりません。 話し方とは誠実さであり、 約束を守ることである――。 江川は常に一人ひとりの受講生に対して、 こう説き続けていたのでした。 |
2014/12/20 |
大学日本一を決める明治神宮野球大会で 今年5回目の優勝を果たした駒澤大学。 2005年まで35年間監督を務め、 同校を大学野球屈指の名門校に育て上げた 名将――それが太田誠さんです。 リーグ優勝22回、日本一9回、 通算勝利数は500勝を超え、 さらに中畑清、石毛宏典、野村謙二郎、 高橋尚成、新井貴浩、武田久ら 数々のスター選手を輩出してきました。 「リーダーが大切にすべき言葉の使い方」 太田誠(駒澤大学野球部元監督) 太田 私もなぜこんな言葉を使ったんだろう、 なぜこんな態度を取ったんだろうと 思い浮かんでくることはたくさんあります。 自分への反省も含め、指導者は悲観的、否定的な言葉を 使ったら絶対にいかんなと思います。 そういう意味では、 今年の5月に私は交通事故に遭ったでしょう。 大八木 あの時は重体というニュースを見て、 驚きました。 太田 夜の7時に雨の降る中、 孫を迎えに行く途中でした。 思った以上に雨が強くて、 もっと大きな傘でなければダメだと 家に向かって踵を返した瞬間、 無灯の車が「ドン!」と来ました。 私ね、この時、本当にスポーツをやっていて よかったと思いましたよ。 飛ばされた反動で肩を外してしまったのですが、 自分でググググっと押し込みました。 監督時代、スライディングで 肩を外した選手を何人も治してきましたから。 脚を複雑骨折していたので、 動く腕を使って匍匐前進のような格好で 家まで戻ると、幸い息子がいました。 「救急車を呼ぶ」というから、 「ダメだ、遅くなる。すぐに病院に連れていけ」と 瞬時に判断できたのもよかったんです。 3日後に手術をして、病院の話では それから退院まで4、5か月かかるという。 そんなにかかったら大変です。 これまでの知恵と経験を総動員して どうすれば早く治るかを自分なりに考えました。 「ピンチの時ほど明るい顔をしろ」 と常に選手に言っていましたからね、 それに挑戦したんです。 病院に入ってから、ナースコールを 押したのは最初の1回だけ。 「痛い」と言ったことは1度もない。 先生が痛み止めをくれるんだけど、 これは筋肉を麻痺させるから治りが遅くなると思って、 1度ものみませんでした。 また、これまで滅多に病院なんて行きませんでしたから、 ああ、病院の先生や看護師さんって大変なんだなと 感謝の心を抱いたら、 逆に自分の怪我への挑戦心みたいなものが芽生えて、 結局、50日で退院しましたよ。 大八木 5か月のところ50日で。 太田 はい。この経験を通じて、 改めて意識が大事だと思いましたね。 退院後には杖も突かず、 すぐに家の周りの草むしりをしました。 それで月に1回、経過を見せに 病院へ行っているんですけど、先生が 「どうですか、痛くないですか?」とか 「天候が不順の時は湿気が多くなるから、 折れたところが重だるくなりませんか?」 と聞くものだから、 「先生ね、そういう悲観的、否定的なことは 言っちゃいけませんよ。 私たちスポーツの世界では通用しません」 と言ったら、看護師さんたちも大笑いしていました。 大八木 でも、本当に早い回復で何よりでした。 太田 いま振り返ると、これもまた 体験させてもらったという気持ちです。 これまで無茶をやりながら自分で考えてスポーツをやってきた経験が、 こういう時にも生きてくるんですね。 太田 指導者には根気が必要です。 自らやり遂げた上で 選手にもやり遂げさせなければなりません。 |
2014/12/17 |
「夢のまた夢」と言われた壮大なプロジェクトに 人生のすべてを懸けてきた人物がいます。 近畿大学水産研究所第3代所長で、 同大学名誉教授の熊井英水さん、79歳。 実に32年もの歳月をかけ、 世界で初めてクロマグロの完全養殖を 成功に導いたリーダーです。 当時ほとんど生態が解明されていなかった中、 研究は困難を極めました。 「不可能を可能にするのが研究だ」 熊井英水(近畿大学水産研究所第3代所長) 熊井 この32年間、もうダメじゃないかと 絶望しかけたことは何度もありました。 ただ、その時その時、発生するいろいろな問題について、 脳みそのない頭で考え、そして所員の英知を結集する。 そうやって一つずつクリアしていった ということですね。 ――32年間、熊井さん自身を支えた思いは何ですか。 熊井 それはやはり、 「不可能を可能にするのが研究だ」 という初代総長からいただいた言葉ですね。 私が25歳の時でした。 ある日、総長から、 「昆布の養殖をやってみないか」 と言われたんです。 それに対して私は、 「そうは言っても、 昆布は北海道のものですから無理ですよ」 と難色を示してしまった。 そうしたら後日、 総長から手紙が来ましてね。 中に新聞の切り抜きがあって、 兵庫県の水産試験場が瀬戸内海で 昆布の養殖試験を開始したと書かれていました。 それですぐに総長に謝ったのですが、 その時に言われたのがこの言葉だったんです。 私はハッとしましてね。 それ以来、いまもなおこの言葉を信条にしています。 ――不可能を可能にするためには 何が大事だと感じていますか。 熊井 第一は「忍耐」。 やっぱり研究でも仕事でも、何かを成し遂げようと思ったら いいことも悪いこともあるわけです。 その時に何が何でもやり通すんだという忍耐、 ブレない継続、これが非常に大事だと思います。 私の好きな言葉に「一志一道」というのがありますが、 一度志を立てたらこれを一筋にやり続けないといけません。 二つ目は「観察眼」。 (前所長で恩師の)原田先生が よくおっしゃっていたのは 「魚に聞け」ということです。 魚は言葉を発しない。 だから、抗議する時は死んで抗議する。 だから、いまこの魚はどういうアピールをしているのか、 何を求めているのか、それをよく観察し、 知るのが本物の研究者だと。 ――声にならない声に耳を傾け、それを察知する。 熊井 そうです。そして、最後は「愛情」。 やっぱり手間隙をかければかけるほど、 魚は我われ飼育している者の意思を分かってくれるし、 よく育ってくれるんです。 完全養殖したクロマグロを初めて出荷する時、 「どういう気持ちですか」って新聞記者の人に聞かれました。 私は「我が子を嫁に出すような心境だ」と言ったんですけど、 本当に我が子を育てるような気持ちがないと あらゆる仕事は成功しないと思います。 |
2014/12/16 |
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