過去の一語履歴を見ることが出来ます。
すぐやる 必ずやる 出来るまでやる 川勝宣昭(DANTOTZ consulting代表) 世界No.1のシェアを誇る総合モーターメーカー・日本電産。 創業者の永守重信社長は、中核戦略となるM&Aによって 赤字会社を次々と甦らせてきました。 永守社長に直接薫陶を受け、いまやグループの主要企業となった2社を V字回復させた川勝宣昭さんが語った そこは京都にある 日本電産本社の一室でした。 正面には社長である永守重信氏が 一人座っています。 私が席に着くと、 すぐに永守社長が話し始めました。 話の内容は創業時のことから会社の現状に至るまで ありとあらゆることに及び、 止まる気配は一向にありません。 こうして私の話を聞こうともなさらない 一風変わった採用面接は、約2時間にわたって続きました。 対する私の質問はたった一つで、 「日本電産は、なぜものすごいスピードで伸びているのか。 何かトヨタの『かんばん方式』のような秘密があるのですか」 というものでした。 1998年当時の日本電産は、 現在ほどの規模ではないにせよ、 ベンチャー企業として急成長を続けており、 連結売上高は既に2千億円を超えていました。 私はその要因を尋ねたのです。 永守社長は 「そんなものはない。 たったこれだけや」 と言って1枚のパンフレットを 机の上に置かれました。 そこにはこう書かれていました。 「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」 言葉に惚れ込むということを体験したのは、 おそらくこの時が初めてだったと思います。 これが日本電産で働きたいという 思いが固まった瞬間でした。 日本電産は精密小型モーターの会社として スタートしていますが、基本的にはM&A戦略で 経営に行き詰まったモーター関連の会社を買って スピード再建することで、発展を遂げてきました。 会社再建にあたり、日本電産は 買収した会社の役員から従業員に至るまで 全員を引き継がせることを一つの特徴にしています。 そのため永守流の経営を根づかせる上で 重要な役目を果たすのが、本社から派遣される代官役でした。 当時から私のように他社でキャリアを積んだ人間が 積極的に採用されていましたが、 それはひとえに買収した会社の経営を 実質的に任せられるだけの人材を 確保せんがためだったのです。 初めて私が代官役として派遣されたのは 入社から8か月後のことでした。 最初の派遣先は現在の日本電産芝浦で、 東芝傘下の芝浦製作所から家電用モーター部門を 独立させた会社でした。 ハイテク部門に資源を集中するために ローテク部門を切り離したい東芝との交渉がまとまった段階で、 交渉担当役だった私が呼び出されて 「明日からすぐに行け」と命ぜられました。 表向きの役職こそ専務ですが、 実質的な社長として再建を任されたのです。 もっとも買収交渉にあたったとはいえ、 そこで働く人たちや製品、技術について 全く知らない人間を突然派遣するというのは、 考えてみれば乱暴な話で、 (前職の)日産時代には到底考えられないことでした。 通常の再建は部下を何人か伴った上で行われるわけですが、 日本電産の再建は部下を全く伴わない単身の落下傘降下です。 しかも永守社長から与えられたテーマは 1年以内の黒字化でした。 当時の芝浦は約1千名の社員を抱え、 140億円の売り上げに対して 年間約40億円の赤字という深刻な状況に陥っていました。 本社から派遣されたたった一人の人間が、 果たして僅か1年で黒字化することができるだろうか――。 私は頭を抱え込んでしまいました。 事前に本社から渡されたのは、 再建のポイントが箇条書きにされたA3用紙1枚きり。 そこには例えば生産性を3倍にとか、 経費は半年で3割カットなど 具体的数値目標が示されていました。 ところが売り上げに関する項目にあるのは たったの1行。これには初め面喰らいました。 日産時代の左脳が肥大した私にとっては、 売り上げ増大は、「マーケティング戦略」とか 「製品・市場戦略」などこそ本筋ではないかと思いましたが、 「訪問件数100件」としか書いてありません。 そこから改革をし、 赤字会社を一年で黒字化するという “化学反応”を起こした。 |
2014.09.11 |
〒979-0154
福島県いわき市沼部町鹿野43
Mail infous@kushida-web.com
TEL 0246-65-2311
FAX 0246-65-2313
定休日:土曜日・日曜日