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世阿弥の言葉に学ぶ“ まことの花を咲かせる生き方 西野春雄(法政大学名誉教授) 「秘すれば花」 「初心忘るべからず」 という言葉は皆さん耳にされたことがあるでしょう。 これらの名言を後世に遺したのは能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)。 なんと今から約750年前、室町時代に活躍した人物で、 人の生きる道にも通じる芸の極意を数多く説いています。 世阿弥は疾風怒濤の時代を生き、 同業者の中には、観客や支援者から評判を得ようとして、 ともすれば芸が乱れがちな者もありました。 そうした風潮に危機感を抱いた世阿弥は、 独自の芸術論を展開し、それを自ら実践することを通じて 芸の本道を貫きました。 世阿弥がその80余年の生涯に書き残した芸術論は、 世阿弥の芸談を息子の元能が聞き書きした 『世子六十以後申楽談儀』も含め、21部を数えます。 そこに記された言葉が、舞台芸術の枠を超え、 人生の指針をも与えてくれるのは、 彼が様々な困難を乗り越えて己の芸を高め続けたこと、 そして懸命に生き続けたことと無縁ではないでしょう。 ここで世阿弥の珠玉の言葉をいくつかご紹介します。 ◇「初心忘るべからず」 世阿弥の言葉の中でも最も有名な名言です。 しかし若干誤解があるようで、現代では、 「物事を始めたときの気持ちを忘れるな」 という意味で使われることが多いようです。 世阿弥の説く「初心」は、芸の道に入って 修業を積んでいる段階での未熟さのことです。 しかも芸能者として未熟な年齢の者だけにあるのではなく、 各年齢に相応しい芸を修得した者にもあり、 幾度も積み重ねられるものです。 一生涯積み重ねてきた「初心」を忘れないために稽古を貫くこと、 そしてそれを子孫に伝えていくことが世阿弥の「初心」論なのです。 ◇「稽古は強かれ、情識はなかれ、となり」 稽古はしっかり行い、 慢心による凝り固まった心を持ってはならない。 稽古とは、ただ練習をすることだけを指すものではありません。 芸を志す者にとっては舞台に立つことはもちろん、 日常のすべてを稽古と心得ることが大事でしょう。 そして情識とは頑なな心を意味します。 私は長年学生を指導してきましたが、 伸びる学生は情識とは反対に皆素直な心を持っていることを実感しています。 世阿弥は、 「昔はかくとばかり思うべからず」 とも説き、昔はこうやったのだからと それに固執し過ぎることを戒めてもいます。 大切なのはオリジナルを守ることではありません。 その時々に観客が望むものに柔軟に応えて言葉を変え、 曲を改めてきたからこそ、世阿弥の能は長く人々に親しまれたともいえます。 ◇「離見(りけん)の見(けん)にて見るところは、 すなわち、見所(けんじょ)同心の見なり」 「離見」とは自分自身から離れた視点を持つこと。 つまり離見の見で見るということは、 すなわち観客と同じ心で見るということである。 役者自身が離見の見を獲得し、 自身の姿を客観的に見るためには、 観客と同じ心、つまり見所同心を持たなければなりません。 それによって自分自身から距離を取り、 客観的な視座を手に入れる。 加えて、肉眼では捉えることのできない姿を 「心の眼」で見ることが必要だとも説いています。 ◇「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。 人、人にあらず、知るをもて人とす」 芸の家とは、家が続いているから芸の家ではない。 芸を継承しているから芸の家である。 その家の者だから芸の継承者とはいえない。 その芸を理解している人が芸の家の人なのである。 芸道では、その芸を後継者に伝えていくことも極めて重要です。 世阿弥は、たとえ一人しかいない子であっても、 実力のない者にはその大事を伝えることはない、 と実力主義を主張しています。 |
2014.06.30 |
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