過去の一語履歴を見ることが出来ます。
おいしい酒 味わう酒 その一点を求め続ける 桜井博志(旭酒造社長) いま全国の酒屋で「獺祭」の棚には 「入荷待ち」の札が貼られています。 この入手困難な人気の日本酒を手掛けるのが、山口県の山の中にある旭酒造。 就任当時、潰れる寸前だった小さな酒蔵を、 いまや世界20か国に展開するまでに育てられた ――社長に就任された当時の会社の状況はいかがでしたか。 いやぁ惨憺たるものでしたよ。 日本酒業界では1升瓶10万本を1千石と表しますが、 最盛期の昭和48年に当社は2千石売れていたのが、 私が継いだ59年には3分の1の700石まで落ちていました。 しかも前年比85%の減少です。 ――どんどん悪化していた? はい。獺越周辺は過疎化が進み、 戦後3千人いた人口も500人にまで減っていました。 もうこの周辺だけではやっていけません。 仮に父が経営を続けていても、 あのままいったらおそらく4、5年で 会社を清算することになっていたでしょう。 そのぐらい、圧倒的な「負け組」でした。 しかし不思議なもので、 ここまで業績が悪いと 社内に危機感やモラールはなくなるんですね。 「何でうちの酒は売れんのや」 「日本酒業界全体が衰退していますから」。 「灘の大手の酒は売れとるやないか」 「大手は宣伝費をバンバン使っていますから」。 「(同じ山口県の)岩国の酒蔵も売れとるじゃろ」 「岩国は街ですから」……。 売れない理由だけは理路整然と返ってきます(笑)。 しかし、売れなければ会社がなくなるということは全く頭にない。 ――大変な苦境の中で経営を引き受けられたのですね。 さらに深刻だったのは、肝心の酒づくりです。 いま旭酒造といえば純米大吟醸というイメージが定着していますが、 当時は普通酒が主力で、品質なんて二の次でした。 それというのも、一級酒以上の酒づくりは大手メーカーがやることで、 地方のメーカーは二級酒というのが一般的だったんです。 また、伝統的に酒づくりは杜氏(とうじ)と その下で働く蔵人(くろうど)集団が行っています。 彼らの本業は農家などで、農閑期になると酒蔵に来て、 酒づくりを行うのです。 オーナーである社長は 彼らの酒づくりに口出しをせず、 販売に徹するのがいまでも慣例なんですね。 ――経営者が口出しできない? おかしいでしょう。 それでも私は、当時いくつか地方の蔵で 純米大吟醸を出してきたので、 「うちもあんな酒をつくりたい」 と杜氏に言ったんです。 すると、「純米大吟醸は難しい、大変だ」と返ってくる。 そんなやり取りをしばらくして、 どうやらうちの杜氏は純米大吟醸がつくれないんだな、 と分かりました。 ――それでどうされたのですか。 紹介してくださる方があって、 翌年から新しい杜氏に来てもらいました。 優秀な杜氏で、彼が来てくれたことで どうにか純米大吟醸らしき酒がつくれるようになりました。 それがいまの「獺祭」のベースになっています。 ――しかし、そこから普通酒を捨て、 純米大吟醸に絞る決断をされたのは、どういう思いからですか。 いや、全然決断していないですよ。 とにかくあらゆる試行錯誤をしたんです。 その一つですよ、純米大吟醸も。 あの頃、船井幸雄さんの本をよく読みましたが、 彼の指導は非常にシンプルで、 売れるものを120%に伸ばして、 売れないものは80%に減らすと。 それをやり続けたら、 純米大吟醸の「獺祭」だけになった、ということです。 ただ、それでも普通酒をやめる決断はなかなかできませんでした。 よくうちの嫁さんに言っていたのは 「『旭富士』で僕らは育ててもらったんだから、 お客さんがもう要らんというまではやめられない」と。 だから、結果的に10年くらい引っ張ったかな。 で、最後は年間300本しか売れなくなりました。 普通酒ですから原料は安いのですが、 300本のためにいろいろなものを動かしていくと、 製造単価は純米大吟醸より高くなる。 それを遙かに安い値段で売るわけですからね。 そこまでいって思い切ってやめたのです。 ――焦点を純米大吟醸に絞られた。 結果的にはそうですが、 そんな格好のいいものじゃないですよ(笑)。 悩んで、迷って、引きずって、ようやく出した結論でした。 |
2014.04.12 |
〒979-0154
福島県いわき市沼部町鹿野43
Mail infous@kushida-web.com
TEL 0246-65-2311
FAX 0246-65-2313
定休日:土曜日・日曜日