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昔、シリアのある王さまが 「人間は生まれた時に 自分の言葉を持って生まれてくる」と信じ、 それを実験するために、 全国各地から生まれたばかりの赤ちゃんを集め、 教育係に「お前たちは一切、言葉をかけるな。 ただ黙ってミルクだけを与えよ」 と命じました。 養育係は王さまの命令に背けませんから、 言われた通り、黙ってミルクを与えました。 そうやって育てられた赤ちゃんはみるみるうちに衰弱し、 全員が死んだといいます。 これは作家の三浦綾子先生から聞いた話です。 人間は単に生理的機能を満たされるだけでは生きられない。 言葉というものが、人間にとって、どれ程大切なものなのかということを、 この話は教えてくれます。 その意味で、言葉はまさに力です。 言葉には霊(たましい)が宿っている、といいます。 言葉はいのちを持っているということです。 さらにいえば、人間の魂は言葉を糧とすることによってのみ育ち、 体が食物を必要とするように、 人間の魂は言葉を感受することによってのみ、成長していく。 |
2018/05/18 |
生まれながらにして類まれなる才能を秘めていたピカソ。 その才能がいかんなく発揮された背景には、 自らの絵筆をきっぱりと捨てた父の存在がありました。 木原 武一(評論家) 学校へ上がってからも、ピカソは絵ばかり描いていた。 教科書の余白は絵で埋め尽くされたが、 読み書き計算はまるでできず、アルファベットの 順序を覚えることすらできなかった。 ピカソがなぜそこまで絵を描くことに夢中になったかといえば、 画家の父親がいつも絵筆を握っているのを見ていたからである。 幼い頃の環境がピカソの才能を育んだのである。 彼の家族は、決して絵を描くことを禁じたり、 勉強を押しつけたりはしなかった。父親は、 息子ほどの画才があれば必ず将来立派な画家になるだろうと 期待を寄せ、母親も、我が子は何をやっても最高の能力を 発揮するだろうとその将来を信じて疑わなかった。 一家を挙げてピカソの才能を称賛して止まなかったのである。 ピカソが10歳になると、父親は自分が教師を務める 美術学校に我が子を入れ、学校でも自宅でも徹底的に 絵の基礎を教え込んだ。生涯に2万点もの作品を描いたピカソだが、 実は描いたデッサンの数も膨大であった。 父親のもとで徹底的に基礎を養ったからこそ、 ピカソはその才能を大きく開花させることができたのである。 そうした父と子の関係は、ピカソが13歳の時に転機を迎える。 ピカソが描いた鳩の絵を見て、我が子が自分の力量を 凌駕していることを悟った父は、自分の絵筆を息子に譲り、 以来絵を描くことを一切やめてしまったのである。 ピカソが幸せだったのは、同じ絵の道を歩んでいた父親が、 我が子の才能を素直に認め、いたずらに矯正しなかったことである。 教えることばかりが父親の役割ではない。 我が子の素質が開花するよう温かく見守ることも父親の役割であり、 愛情の表現であると私は思う。 |
2018/05/17 |
森 迪彦(森 信三氏 ご子息) × 平澤 裕(平澤 興氏 ご子息) × 西澤真美子(坂村真民氏 ご息女) 【平澤】 父の遺した言葉についても触れておきたいと思います。 「私が私の一生で最も力を注いだのは、 何としても自分との約束だけは守るということでした。 みずからとの約束を守り、己を欺かなければ、 人生は必ずなるようになると信じて疑いませぬ」 たとえ自分でこうしようと決めたことを守らなかったとしても、 他人には分かりません。咎められることもなければ、 信頼を失うこともありません。しかし、他人が見ていなくても 天は見ていますし、何より自分自身がそれを見ている。 自分との約束を破る人は自分に負けている人であって、 それでは成長は止まってしまうということでしょうね。 【西澤】 本当にそのとおりですね。 【平澤】 ただ、単純なようで、これを徹底して実践するのはなかなか難しいものです。 次に、 「人は単に年をとるだけではいけない。どこまでも成長しなければならぬ」 私も75歳になって、気持ちが枯れそうになることもありますけど、 年を取っても自分に負けてはいけない。 いつまで経っても燃えて生きなければならない。 そう喝を入れてもらっているんですよ。 【森】 私の父も「人間は進歩か退歩かの何れかであって、その中間はない。 現状維持と思うのは、じつは退歩している証拠である」 と言っていますので、心したいですね。 【平澤】 それと、次の言葉です。 「自分の力で生きているなどと、おこがましいことを考えません。 毎朝、目をさましたとき生きていることの不思議さを感じ、それを喜ぶのです」 私は10数年前、父と同じで大腸がんの手術をしたんですね。 そういうこともあり、この年になってつくづく思うのは、 当たり前というのは実は大変ありがたいことなんだと。 たくさんの目に見えないものの働きのおかげで命がある。 そういう生きる喜びと感謝を深いところで感じ、 日々を営んでいくことが大切だと思っています。 【西澤】 ものすごくよく分かります。私が好きな父の詩に、 「影あり/仰げば/月あり」というのがあるんです。 この詩に深く感じ入ったのは母の介護をしていた時でした。 ある日、介護で夜中まで起きていて、深夜3時頃に、 少し寝ようかと思って部屋の電気を消すと、 お月様の光が部屋の奥までサーッと差し込んでいたのです。 外に飛び出して空を仰ぎますと月が輝いている。 そうしたら、必ず手が合わさる、自然に。ありがたいなぁって。 でも、電気をつけていた時は気がつかなかった。 同じように、この世界には私たちのことをいつも 見守ってくださる大いなるものが存在していると思うのですが、 多くの場合、人はそれに気づかない。 気づくと感謝の念が湧き起こりますよね。 |
2018/05/11 |
創業以来、実に200年以上の歴史を持つうなぎ屋「野田岩」。 その5代目を務めるのが御年90の金本兼次郎さん。 金本 兼次郎(野田岩五代目) 【金本】 少し前の話ですけど、入ってきてからもうすぐ6か月が経つというのに、 一向にうなぎがうまく裂けなくて全くお手上げの子がいましてね。 もうどうすればいいか、僕にも分からない。 ところがある朝、いつものように包丁を持って、 「いいか、こうやるんだぞ」ってやってみせたら、 パッとできるようになった。勘を覚えたんです。 ──それは一瞬ですか。 一瞬。それには僕も驚いた。「おい、おまえ裂けんじゃねえか」 って言ったら、嬉しそうな顔をしてね(笑)。 それからはもう夢中になってやり始めて、ものにしちゃったんです。 やっぱり人間っていうのは、頭がいい悪いに関係なく、 何かしらいいものを持ってますよ。 それを教えるほうの人間がどれだけ引っ張り出せるか、 出せないか、そこなんですね。 とにかく教えるっていうのは闘いのようなもので、苦しくて、 きついけど、何かの拍子にぐんと成長していく姿を見るのは嬉しいですね。 何が嬉しいって、これがいま、一番嬉しいんじゃないかな。 ──弟子たちの成長が、金本さんご自身の喜びであると。 ただ、僕だって教えているばかりじゃないですよ。 若い連中も朝早くからどんどん出てくるから、 僕は僕で早い時には3時半に起き出してきて、 「ようし、連中が出てくる前に80本裂いちゃおう」って目標を立てて、 ガーッとやるわけです(笑)。まだ誰もいない時は仕事も捗るから、 時には「今朝は百本裂いたから、もう上がるぞ、俺は」 って言いながらさっさと休憩に入っちゃう。 だから幾つになっても、格闘なんですよ。 「きょうは調子がいいぞ」「いつもよりちょっと早く裂けた」とか、 そういった喜びっていうのは、仕事をしていればどこにでもあるわけです。 |
2018/05/07 |
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