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砂を噛むような 塩沼 亮潤 (慈眼寺住職) 命がけの仏教の修行の一つ「千日回峰行」を成就した慈眼寺住職・塩沼亮潤さん。 その修行とは、往復48キロ、高低差1,300メートルの険しい山道を、 16時間かけて歩く、それを年に120日余り、足掛け9年続けるという、 まさに人間の限界に挑み続けるものです。 39度5分以上の熱があったと思いますが、熱を測る時間もありません。 すぐに滝で身を清め、階段を上ったところで意識がほとんど飛んでいました。 気がつくと、杖も提灯も持たず、編笠も被らず、 両手にたくさんのお水を持って歩いていました。 数100メートル行っては倒れ、数10メートル行っては蹲り、 ぼろぼろになって山頂を目指しました。 山道に入ると小さな石に躓きました。両手がふさがっていますので、 ロケットのように体が飛んでいって顔から地面に叩きつけられました。 横たわったまま、永遠に時間が止まってほしいと思いました。 もう一人の自分が「ここで行を終えたら、ここが自分の墓場になるんだな」と思っていました。 目をつぶっていると仙台の母と祖母の顔が浮かんできました。 一方に母ちゃん、反対側にばあちゃんの手の温もりを感じました。 中学2年の時に両親が離婚しました。そのあと母はいつも言っていました。 「家にお金はないけれど、一所懸命頑張ってる母ちゃんの後ろ姿、これがおまえに残してやる財産だよ」。 そんな母の頑張りを知っていたから、どんなに辛いこと苦しいことがあっても、 私はエネルギーを得ることができたのです。 そのうち頭に浮かぶ映像は昭和62年5月6日の朝のシーンになりました。 出家する朝、母がおいしい大根の味噌汁を作ってくれました。 3人で食べて、いつもならば私が食器を洗うのですけれど、 「きょうはいいから」と母が洗ってくれました。 しばらくするとガチャンと音がしました。「何したの、母ちゃん」と聞くと、 母は「食器を全部捨てた。おまえの帰ってくる場所はもうないと思いなさい。 砂を噛むような苦しい修行をして頑張ってきなさい」と言いました。 その時、「砂を噛むような」という言葉が幻聴なのか、 闇の中に響いたような気がしました。 「そうか、俺はまだ砂を噛んだ経験がない。死ぬ前に一度砂を噛んでみよう」。 目の前にある砂を自分の舌で舐めて噛んだところ、正気が戻ってきました。 「こんなところで死んでいられない」という思いが溢れるように湧いてきました。 情熱が息を吹き返して、私は猛烈な勢いで山に向かって走っていました。 走って、走って、走って……。私は天に向かって叫びました。 「私に苦しみを与えるならば、もっと苦しみを与えてください。けれども私はへこたれません」 片道24キロを走り切り、山頂に到着した時には全身から湯気が出ていました。 山小屋のおじさんが「どうしたんや」と聞いてきました。私は笑顔で答えました。 「ちょっときょう遅れたんで、そこそこ走ったからじゃないですか」。 おじさんは全部分かっていて、「そうか、頑張りや」とだけ言ってくれました。 |
2018.03.01 |
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