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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.299

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一語履歴 vol.299
修養への関心が高まっていった...
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一語履歴 vol.291
会社に共通してる点...
今年の4月17日で渡部昇一先生の一周忌を迎えました。

早藤 眞子(ピアニスト)
   ×
渡部 玄一(チェリスト)
   ×
渡部 基一(ヴァイオリニスト)

【玄一】
それにしても不思議なのは、僕たちの前で修養という言葉を
口にする人ではなかった父が、晩年になるにつれて
修養への関心が高まっていったことです。

父とは伊豆のジュース断食施設に一緒に行く機会もあって、
まとまった時間をともに過ごすことも多かったのですが、
いま考えると本当にもったいなかったなと。

この修養ということについても、もっと聞きたいこと、
教わりたいことがいっぱいありました。
僕の喪失感はそこからも来ているような気がしているんです。

【基一】
父の生き方ということでお話しすれば、2015年4月、
関西で母がピアノの演奏をした時、父と二人で新幹線に乗って
大阪の会場に行く道すがら、私はアメリカ留学中に就いていた
ユダヤ人のヴァイオリンの先生から教わったことについて父に話をしました。

父と私の二人だけの旅行はそれが最初で最後だったのですごく印象的でした。
そのユダヤ人の先生から「基一、君は人生で最も大事なものは
何だか知っているのか」と聞かれ、「それはホープ、希望だ」と。
その「ホープ」という言葉は、親族がホロコーストによって
殺害されてしまった先生にとっては腹の底から出た言葉だったんです。

で、父にその話をしたら「そうだよな、人間というのは
希望がなければ生きられないな」としみじみ感じ入って言ったんです。
そして、いまつくづく父の人生は常に希望を抱いて、
そこに向けて前進していく人生だったのではないか、
という感慨を深くしているんです。

それから、あまり食べ物を受けつけられなくなっても、
父は「俺はこれまで不機嫌な日は一日もなかった」と何度も言っていましたね。
ふて腐れたり、機嫌が悪くなって難しい顔をしたり、
というのが自分でも一切なかったというんです。

特に最後の一年は病院の医師や看護師ばかりか、会計のスタッフの人にも
「ありがとう、ありがとう」と言っていてまるで聖人のようでした。

【眞子】
本当にそうでしたね。

【基一】
私たちが父の車椅子を押したり、タイヤを拭いたりしている姿を見ながら、
父は秘書さんに時折何かを言っていました。
何だろうと思って家内とも不思議がっていたのですが、
「これをしっかり見ておきなさい」と言われた、と秘書さんは
話してくださいました。それはきっと「家族の絆というものは
こういうものなんだよ」ということだったのだと思います。

ですから、希望と感謝、さらに家族の絆。これらが父の人生を
貫いた柱ではなかったかと私は息子の一人として感じています。
 
2018/05/04

40年近くテレビ番組制作に携わっていると、
「テレビに出たい」「有名になりたい」という人種に
数多く遭遇する。

そう頼まれたからといって、出演を簡単に
承諾できることはほとんどない。

テレビとは、出たい人が出るものではなく、
視聴者が観たい人に出てもらうものであるからだ。

少なくとも、私はずっとそう考えて番組を制作してきた。
残念ながら、自ら出たいと願う人の多くは、
観せるに値しないのが世の常なのだ。
しかし、そんな定説を覆すような
型破りな存在が私の前に現れた。

     ――塩田芳享(まえがきより)

生後10か月の時、筋肉がどんどん動かなくなる
10万人に一人といわれる難病「脊髄性筋萎縮症」と
診断された佐藤仙務さん。

しかし、不屈の闘志と持ち前の明るさで、
ホームページ制作、名刺デザイン制作などを
手掛ける会社を19歳の時、起業。

26歳となった現在、自らを“寝たきり社長”と名乗り、
わずかに動く親指の指先だけで会社経営を行い、
社員6名を雇用されています。

『寝たきり社長 佐藤仙務の挑戦』

佐藤さんの原点の一つは、
高校3年生の夏、ある男性から言われた
次の言葉にあるといいます。

「おまえのような軟弱障害者、ろくな人生を送れないぞ」

当時、障害者が働く作業所への就職が
決まっていた佐藤さんですが、その研修中、
職場の先輩から言われた言葉に、やるせない憤りを覚え、
同じ病気と闘う幼なじみと会社をつくることになるのです。

「僕たちには、出来ないことはたくさんあるけれど、
出来るだってたくさんあるよね。
二人でそれを証明していこうよ」

会社設立時に誓い合ったその言葉を
二人は次々に現実のものとしていきます。
 
2018/05/03

サントリーHD社長の新浪剛史さんを兄に持ち、
自らは心臓外科医として国内屈指の手術数を誇る
新浪博士さん。そんな兄弟二人ははどのような
家庭で育ったのか。

新浪 博士(心臓外科医)

──実際にお父様から影響を受けられたこととして、
  どんなことが挙げられますか?

これは兄弟ともに言えることですが、一番に影響を受けたのは英語です。
親父は英語がものすごく好きだったんですよ。
どこかアメリカに対する憧れのようなものがあったのかもしれません。

親父は高校卒業後に明治学院に進んでいて、
その頃から一所懸命英語を勉強していましてね。
戦後は横浜の港にある運送会社に勤めていて、
米軍の人たちとの仲介役を任せられていたんです。

それもあって、僕たち兄弟が小さい頃から、
「これからは絶対に英語が必要だ」ってよく言っていました。
 
兄が中学校に入る頃には、小さな黒板を買ってきてくれて、
週末になると近所の子供たちも集めて英語を教えてくれたんです。

──それは本格的ですね。

内容的にはほんの初歩的なレベルでしたけど、
当時は小学生で英語をやるなんてことはなかっただけに、
僕は興味を持って聞いていました。

僕が中学校に進学する頃になると、
ちょうどテレビで音声二か国語放送が始まっていて、
親父が専用チューナーを買ってきましてね。
ニュースや映画を英語で聞くわけです。
でも、僕にはまだ全然聞き取れないから、
「勘弁してくれ」ってよく喧嘩になりました。

それにFENという在日米軍向けのラジオ放送もよくかかっていましたから、
よく言えば新浪家はすごく英語環境に恵まれていた。
別の表現をすると、洗脳教育に近かったと思います(笑)。

中学生の頃には、よく親父と近所を30分くらい散歩していたのですが、
英語の試験前になると、その道すがらリスニングとか
スピーキングについて指導を受けていましてね。
親父の英語は独学で、日本語訛の発音だからうまくなかったんですけど、
よくダメ出しされながら教えてもらっていた記憶があります。

──英語が親子の間の潤滑油のような役割だったわけですね。

そのおかげもあって、群馬大学医学部在学中に
2か月くらいアメリカに行く機会を持てましたし、
医局に入って3年目にしてアメリカに2年、
オーストラリアに3年留学する機会を得ることにも繋がりました。

その当時留学自体まだ稀なことでしたけど、人一倍、
英語圏に行きたいという気持ちがあったからこそ実現できたようなもので、
そのモチベーションの源は間違いなく親父の存在でしたね。
 
2018/05/03

科学への信頼が厚く、大学は工学部に入った皆藤章さん。
そんな皆藤さんが、臨床心理士を目指すようになった
きっかけとなった、ある恐ろしい事件。

鈴木 秀子(文学博士)
  ×
皆藤 章(臨床心理士)

【皆藤】
河合先生と出会えたのは全くの偶然です。
私は高度成長期に多感な時期を過ごしたので、
科学への信頼はかなり厚いものがあったんです。
科学で社会に貢献したいと思って大学は工学部に進みました。

2年生の時に不登校の中学生の家庭教師をしていました。
ある日その家に行くと、その中学生が運動靴を履いたまま
「おかんどこや」と叫びながら居間を歩き回っていました。
怖くて押し入れに隠れていた母親を見つけると激しく殴ったり蹴ったりして、
最後には電話線で首を絞めたんです。それは凄惨な状況でした。

【鈴木】
そんなことが……。

【皆藤】
私は「やめろ」と叫んで後ろから羽交い締めにしましたが、
母親は「先生、止めないでください。私が悪いんです」と言うのです。
母親は失明寸前の大けがを負い救急車で運ばれましたが、
この衝撃的な出来事をとおして、私はどれほど科学が進んだとしても、
この家族が抱える問題を解決することはできないと痛切に感じたんです。
工学部で学ぶ意欲が失せていったのはその時からです。

【鈴木】
それで教育学部に転学なさったのですね。

【皆藤】
転学して最初に受けたのが河合先生の臨床心理学の授業でした。
その時、先生は仁王立ちになって遠くを見つめながら、
「臨床という言葉は床に臨むと書く。つまり、臨床とは死に
逝く人の床に臨んで魂のお世話をすることです」とおっしゃるんです。

周りの学生たちは頷いていましたが、「魂のお世話」と言われても
私には何のことだかさっぱり分からなかった。
科学は魂という概念を捨てるところから始まっているわけですからね。

でも、一方では「変なことを言う先生だけど、
この先生に学べばあの親子の気持ちが少しは理解できるかもしれない」
と思うと、すごくエネルギーが湧いてくるのを感じたんですね。
心理学を学ぶ学生の中では最後尾を走っていた私でしたが、
それでも必死に勉強して大学院へと進みました。
 
2018/04/27

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