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不世出の宮大工と謳われた西岡常一棟梁と、 たった一人の弟子、小川三夫さん。20年にも及ぶ 子弟関係ながらも、師匠から教わったのは たったの一度だけといいます。 占部 賢志(中村学園大学教授) 【占部】 不世出の宮大工と謳われた西岡常一棟梁と、 たった一人の弟子の小川三夫さんの師弟関係もそうですね。 修学旅行で奈良を訪れた高校生の小川さんが五重塔を見て心を奪われ、 西岡棟梁に弟子入りを志願するけれども即座に断られる。 やっと許されたのは3年後だったそうです。 【教師C】 西岡常一と言えば、法隆寺の「昭和の大修理」で知られる宮大工ですよね。 たしか中学2年生用の国語教科書に『法隆寺を支えた木』が載っています。 【占部】 小川さんは、この棟梁のたった一人の内弟子となるわけです。 じゃあ、師匠が今風の監督やコーチのように手取り足取り教えたか。 棟梁はそんなこといっさいしない。だから弟子としてはどうするか。 棟梁の技を見よう見まねで覚えていくしかないのです。 西岡棟梁が亡くなるまでの20年の間教えて貰ったのは、 たった一度だけだったらしい。 【教師C】どんなことだったんでしょうか。 【占部】 あるとき、西岡棟梁が鉋を引いて手本を示してくれたことがあった。 それ一度きりしかないけれども、その鉋くずを手に取ると、 向こうが透けて見えたそうです。 【教師B】 そういうのを匠の技というのでしょうね。 【占部】 私は、小川棟梁が目の前で槍鉋を引いて削られた 長い鉋くずを持っていますが、こんなに薄く削れるものかと 驚くほどの薄さですよ。もちろん、西岡棟梁の鉋くずと同じように、 向こうが見えるほど透き通っている。 ああなるほど、師匠から弟子への技の伝承って、 こういうことなんだなと思いましたね。鉋くずはその紛れもない証です。 やはり師弟関係というのは、先達の技や人格に対する深い敬意がもとにある。 そうじゃないと、単なるマネジメントにすぎません。 【教師A】 最近、監督やコーチと選手のあいだのトラブルなどが続くのも、 敬意という人格的なつながりが希薄になっているからかも知れませんね。 |
2018/04/26 |
2016年に開催されたリオデジャネイロパラリンピックで 初めて正式種目に採用された女子ブラインドマラソンで 見事銀メダルを獲得した道下美里さん。 道下 美里(ブラインドマラソンランナー) 道下さんが初めて目に違和感を覚えたのは、 小学校4年生の時だったといいます。 「初めて右目に異変が見つかったのは、小学四年生のこと。 その後、原因も分からぬままに視力は徐々に落ち、 中学2年生の頃には0・1に。医師の勧めに応じて行った 数度の手術も空しく、右目は完全に光を失ってしまったのです。 それでも左目を頼みに高校、短大を卒業した後に、 働きながら調理師免許を取得したのは、 将来、レストラン経営を夢見ていたからでした」 しかし、残された左の目にも病魔が忍び寄ってきます。 「残された左目に、右目と同じ異変が見つかったのは 20代も半ばに差しかかった頃でした。 すぐに医師の診断のもと手術に臨んだものの、 術後に目を開くと、擦りガラスをとおして 見るような状態になってしまったのです。 完全に光を失ったわけではありませんが、 そうなっては一人で外出することもままなりません。 未来に希望を描くこともできず、自分が生きている意味を 一人自問自答する日が続きました」 母親の勧めで入学を決めたのが、 同じ境遇の人たちが通う盲学校でした。 最初は不安でいっぱいだった道下さんでしたが、 その不安だった心を元気にしてくれたのが学校にいた仲間たちだったのです。 「周囲の人たちとうまく関係を築いている盲学校の仲間から 学ぶ中で克服できたことも多くありましたが、 自分に素直になれたことで人間関係に悩むことも 徐々になくなったように思います。 一方、チャレンジ精神旺盛な仲間たちに刺激され、 スキューバダイビングなど新しいことにも挑戦しました。 あれもできない、これもできないと失うことばかりだった 青春時代を過ごしてきただけに、盲学校に入ってからの3年間は、 何かを取り戻そうと必死だった自分がいたのです」 盲学校で陸上競技を始めた道下さんは、 どんどん実力をつけ、遂にはフルマラソンにチャレンジ。 遂にはパラリンピックの舞台に立てるまでになられたのでした。 そんな道下さんの心の支えになっているのが 「耐えるもの必ず志を得る」でした。 「盲学校を卒業後に勤めた鍼灸院に西森芳夫院長という 全盲の方がいらっしゃいました。かつて戦場で 爆雷にあって視力を失い、戦後の動乱期における どんな逆境にも耐え抜く中で、 鍼灸師という道を一心に歩んできた先生です。 御年90にしてなお意気軒昂でいらした西森先生に教わったのが、 『耐えるもの必ず志を得る』という言葉でした。 どんな逆境に遭っても、投げ出さずに耐え忍べば、 必ずその先に光が見えてくる――。 障碍者にとっての日常は、耐えることの連続です。 その中にあって何があろうと、 時を待てるようになったのはこの言葉のおかげでした」 道下さんの直向きな歩みに、どんな逆境に遭っても、 決して諦めることなく、前を向いて歩き続けることの大切さを教えられます。 |
2018/04/18 |
≪頭の構造を変えてしまうほどの勉強法≫ 100年以上続く伝統薬「正露丸」の効能を 科学的に明らかにするとともに、新たな市場開拓にも 取り組む大幸薬品社長の柴田 高さん。 若い頃から培ってこられたという、その勉強法 柴田 高(大幸薬品社長) × 川端 克宜(アース製薬社長) 【川端】 柴田さんは、もともとは外科医としてご活躍されていたそうですね。 【柴田】 私は「正露丸」の製造・販売を行う大幸薬品創業家の 三男として生まれたのですが、幼い頃に 「大幸薬品の社長になる」と両親に伝えたら、 「老舗に兄弟が多いのは揉め事のもとだ。 自分の道を探しなさい」と言われました。 それで子供ながらにかっこいいと思う仕事、パイロット、 レーサー、外科医の三択に職業を絞りましてね(笑)。 結果的に外科医になることを決め、 国立を受験する学力はなかったものの、 私立の川崎医科大に合格して進学しました。 ただ、私立といっても同級生たちは皆優秀でした。 その中で国立の医学部に落ちて川崎医科大に来た友人が言った 「結果は能力×時間だ」という言葉が非常に心に響きましてね。 【川端】 結果は能力×時間。 【柴田】 というのも、私は数学の試験なんかでも、 応用になると全然だめで、多少暗記ものができるくらいでした。 兄たちにも「高は出来が悪い」といつも言われていました。 それが友人の「結果は能力×時間だ」という言葉を聞いて、 自分のような頭の回転の悪い人間であっても、 頭のよい人の三倍の努力をすれば絶対に勝てるはずだと、 一日16時間の猛烈な勉強を始めましてね。 医学の知識を二度と忘れないくらいに頭に きっちりファイリングすることができ、 最終的に三番の成績で卒業することができたのです。 【川端】 一日24四時間しかない中で、16時間とはすごいですね。 【柴田】 確かに長時間の勉強は辛かったですが、人間は辛い出来事は覚えて、 楽しい出来事はすぐ忘れてしまうでしょう? 勉強も同じで、辛い思いをして覚えたことは忘れません。 また、ある種のコンプレックスをばねにして人の3倍の努力をすれば、 人間も昆虫と同じように背中の殻がぱかっと割れ、 まるで変態するかのように頭の構造を 変えることができるというのが私の実感です。 |
2018/04/16 |
終末期のがんで苦しむ90歳近い母親と、 そのそばに付き添う年配の息子さん。 それまで苦しそうだった母親を一瞬にして 穏やかな気持ちにさせた、魔法の言葉。 鈴木 秀子(文学博士) × 皆藤 章(臨床心理士) 【鈴木】 皆藤先生は「命に寄り添う」とおっしゃいましたけれども、 私はある地方に旅行をした時、それを実感する出来事に出合いました。 「苦しんでいる終末期の人がいる。来てほしい」 という連絡が入って行ってみると、 90歳近い母親に年配の息子さんが付き添っていました。 「痛いよ、苦しいよ」とわめく母親に、息子さんは 「母さん、痛いか、苦しいか」と話しかけていました。 私はその様子を見ていて、息子さんに 「母さん、痛いよね、苦しいよね」と気持ちを 寄り添わせてみたらどうですか、と伝えて、 息子さんもそのように語りかけました。 すると、驚いたことに母親が次第におとなしくなり、 表情も穏やかになっていったんです。 ああ、この息子さんはいままで母親の苦しみを 取ってあげようと頑張っていたけれども、 苦しみと相対するところに自分の心を置いていて 二人の間には距離があった。かける言葉を少し変えただけで、 母親にピッタリとくっついて同じ命を 生き始めることができたんだ、と気がついたんですね。 【皆藤】 クラインマン先生はケアの本質はラブだと おっしゃっていましたが、まさにそういうことだと思います。 そのラブとは若い人たちの性愛的なラブ、 未来に向かって開かれていくラブではなく、 ある年齢まで生きて次第に弱っていく相手に対する リスペクト(尊敬、敬意)だというんです。 |
2018/04/11 |
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