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14歳で暴走族の最年少メンバーになると、 21歳で逮捕されるまで様々な罪を犯してきたという工藤さん。 いまでは地元福岡で更生保護施設を運営し、 数多くの子供たちを独り立ちできるよう指導しています。 そんな工藤さんの転機となった『蜘蛛の糸』を想わせる 21歳の頃のあるエピソード。 工藤 良(田川ふれ愛義塾理事長) 少年院に入った時は、「このままじゃいけん」と思いつつも、 自分の中の見栄が勝って更生できなかったんですけど、この時は違いました。 留置場に入ってすぐに、生まれて初めて罪の重さを自覚し、 反省という感情が生まれたのが自分でも不思議でした。 そして、それまで自分に手を差し伸べてくれた先生や警察、 母の顔が次々と浮かんできたんです。 これが何だったのかいまでも分かりませんが、 その時留置場の小窓からパアッと眩い光が 差し込んできて、声が聞こえてきました。 「あんたが真面目になったとしても、 あんたが道をつけた人たちは被害者として残っていくんや」 自分が更生しようとしている間にも、私が悪さを教え、 暴力団と繋いだ仲間は悪の道に進み続けている。それを教えられたんです。 いままでまともに仏壇にも手を合わせたことのない人間でしたが、 正座してその光に合掌し、「もう一度だけ、チャンスが与えられるのであれば、 自分だけでなく自分が悪の道に引き込んだ仲間を、 何年かかっても必ず元のレールに戻します」と誓っていました。 ──神秘的な体験でしたね。 数日後に離婚届を持って面会に来た妻に、 この体験や天に誓ったことをすべて話したところ、 離婚を思い留まってくれました。 この時、昔教わった芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話を鮮明に思い返し、 主人公のカンダタと同じように、天から一本の糸をもらったように感じたんですね。 |
2018/04/09 |
冬の寒い日々の中でも今に生きることの大切さを 私たちに教えてくれる花の姿に真民先生の詩が心に響きます。 咲くもよし 散るもよし 花は歎かず 今に生きる |
2018/04/05 |
名利を顧みることなく、大義に生きることを潔しとした 古きよき日本人の男たち。そういう男たちの実話が 100年ぶりに明らかになりました。1920年のロシア革命時、 難民となって広大なアジア大陸を彷徨っていた 800名のロシア人の子供たちとその教職員を、 貨物船を改造した大型船「陽明丸」に乗せ、 太平洋、大西洋を横断して3か月をかけて無事親元に届けたのが、 勇敢な日本人の船会社社長と船長でした。 彼らは世界のどの国も断ったアメリカ赤十字からの 救援依頼を引き受け、人知れずその危険な務めを為し遂げたのです。 北室 南苑(著述家) ■「陽明丸」の探索はふとした出会いから 「陽明丸」の救出作戦は驚くべき内容ですが、 この貴重な史実を発掘したのは歴史家でも研究者でもありません。 石川県の書家・北室南苑さんです。 特別に歴史を学んでいたわけではない書家によって 事実が明らかになった点も特筆に値します。 北室さんは国内外で個展を開催していますが、2009年、 ロシアの古都・サンクトペテルブルクでの個展の折、 あるロシア人女性から「実はある人を探しています。 ぜひ協力してほしい」という相談を受けます。 女性の名はオルガ・モルキナさん。オルガさんの祖父母は子供時代、 「陽明丸」によって救出されていて、オルガさんは カヤハラさんという船長の子孫にどうしてもお礼が言いたいと ずっと願ってきたというのです。余りに唐突な相談でしたが、 そこから北室さんの執念ともいえる探索がスタートします。 探索の取っ掛かりは「ヨウメイマル」という船を特定することでしたが、 これは早い段階で、大正時代に運航していた外国航路の大型船「陽明丸」に ほぼ間違いないことが分かりました。 その系統に繋がる船会社に話を聞くなどする中で浮上したのが、 当時の経営者(船主)だった勝田銀次郎という人物の名です。 さらに調べていくと、ごく簡単な記述ながら、 勝田船主は「子供たちを救ってほしい」という アメリカ赤十字の依頼を受けて貨物船だった陽明丸に 客室を装備、人員輸送に必要な装備を施した上で ロシアに船を差し向けていたことが分かりました。 人望の厚かった勝田船主は経営の一線を退いた後、 神戸市長を2期務めていますが、それだけの人物でありながら、 古書店で入手した評伝などを紐解いてみても、 陽明丸や子供たちの救済に関しては、 なぜかごくごく限られた情報以外に見つけることはできません。 神戸に行けば何か新しいヒントがあるのではないかと考えた私は、 毎月3回ほど石川から神戸に足を運び、 市立図書館に籠もっては勝田船主に関連する資料の収集に当たりました。 1日に取るコピーの数は約百枚。なかなか核心は掴めないまでも、 私の心は勝田船主の人物像が少しずつ明らかになっていく喜びに満たされていました。 一方、肝心のカヤハラ船長については 全くといってよいほど情報が得られませんでした。 手始めに「カヤハラ」を漢字変換しながら該当人物を インターネットで検索してみましたが、全くのお手上げ状態でした。 北室さんは、オルガさんから依頼されたカヤハラ船長の名が 茅原基治であることを突き止めるまでに2年の歳月を要しました。 そして2011年10月、オルガさんは来日し、岡山県笠岡市の子孫を訪ねて、 夢にまで見た茅原船長の墓参を果たすのです。 ■危険な航海を成し遂げた船長の手腕 800名の子供たちを乗せた陽明丸ですが、 3か月の大航海の中でも最大の難所は最終目的地の フィンランドに向かうバルト海でした。バルト海は第一次世界大戦中、 連合国軍とドイツ海軍が激戦を繰り広げ、 おびただしい数の機雷が敷設されていました。 この危険極まりない海を無事抜けることができるのか。 すべては茅原船長の腕一つにかかっていました。 バルト海航海に臨むに当たって茅原船長はまず、 機雷の実態に詳しい地元の熟練のパイロット(水先案内人)を 探し出して協力を求めました。茅原船長や水先案内人をはじめとする船員たちは、 24時間態勢で目を皿のように凝らし、全神経を水面に集中させながら、 ゆっくりと船を進め、約一週間をかけて無事コイビスト港に投錨するのです。 この辺りのいきさつは茅原氏の手記には詳しく記されていませんが、 心身ともに極限状態を強いられる持久戦だったことは想像に難くありません。 茅原氏はこのような卓越した能力の持ち主でありながら、 一方ではとても優しく温かい人柄だったことが、 彼の手記からは窺い知ることができます。 この茅原船長の言葉のように、戦争や飢餓を経験し、 死の恐怖に怯え続けた子供たちにとって、陽明丸での3か月間の大航海は 文字どおり幸福な楽園だったようです。赤十字の潤沢な資金によって 船内には食べ物や衣類がふんだんに積み込まれていたのですから、 それだけでも別世界でした。彼らが帰国後にずっと隠し持っていた 数々の写真からは、船上生活の喜びが伝わってくるようです。 「陽明丸」の救出作戦が展開されたのは、 日本人の心にまだ日露戦争の記憶が鮮明に焼きついている頃でした。 ロシアに対する反感が根強かったことを考えても、 この大航海がどれだけ勇気の要ることだったかが分かります。 北室さんは勝田船主や茅原船長に共通するものとして 「義侠心」を挙げられています。身を捨てる覚悟で子供たちの 救出活動に臨んだ先人の生き方に、私たちも学びたいものです。 |
2018/04/05 |
瀕死の子供を救う小児集中治療の普及に力を尽くす 植田育也さん。より多くの命を救えるかどうか、 その鍵を握るのが、チームワークにあると言います。 植田 育也(小児集中治療のプロ) ──こどもの生死を左右する大変難しいお仕事ですが、 特に心懸けておられることはありますか。 この仕事では、命の火が消えそうなこどもが いきなり目の前に現れてくるわけです。 そこから、自分が培ってきた知識と技術を総動員して、 何とかその命を救うためのロードマップを瞬時にしてつくる。 そういう訓練をいつもさせられている感覚がありますね。 人間の体の変化は非常に複雑な上に、予測もつかない事態に 次々と直面するんですが、次の手、次の手と的確に 対応しながら道を見極めていかなければなりません。 これは、他の仕事にも応用できることではないかと思うんです。 複雑な物事を単純化して、そして自分の中から 最も有効な手札を引き出して対応していく。 仮でもよいのでなるべく早く目標を立てて、 そこを見失わないように近づいていくことで、 目的を達することができると思います。 もう一つ大切なことは、それを主治医の頭の中だけに 留めておくのではなく、他のスタッフとも共有することです。 ──一人で仕事をするのではないのだと。 アメリカで研修に参加している時は、朝に夕に ディスカッションを重ねて、主治医の考えていることを チームで共有していました。周りとキャッチボールを 重ねながら自分の頭の中を言語化し、チーム全員であたかも 一つの脳みそのように皆と情報を共有して道筋を明確にしていく。 そうすると、スタッフから思いがけないフィードバックを受けて、 よりよい方向へ軌道修正することもできます。 常に一緒に進むことを明確にしておけば、 チームでよい仕事もできるようになると思いますね。 |
2018/04/05 |
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