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関は人間を磨く通過門 人生にも関所がある。 「人生はしばしば出合わねばならぬ 関所を幾つも通り抜ける旅路である」 とは安岡正篤師の言葉である。 関所を越えることで人は人生に 新しい世界を開いていくのである。 禅家の修行では、厳しさが 極点に達したところで、 よく「関」の一語を浴びせかける、という。 それを越えることで、 禅者は無礙自在の境地に到達していく。 在家も同じだろう。 関は人間を磨く通過門である。 |
2016.05.24 |
勝海舟のちょっといい話 石川 真理子(作家) 思うに人の一生は平坦ばかりではなく、 山もあれば谷もありますが、そのどれもが 関だと言えるのかもしれません。 例えば人は成功すれば驕りが生じてきます。 この驕りという関もまた 越えていかなければなりません。 考え方によっては逆境にある時よりも 実は難しい関なのかもしれません。 では海舟はどうだったのでしょうか。 若い頃は生活に苦労した海舟でしたが、 晩年お金に困らなくなってからも 一汁一菜に徹して、煎餅布団の上に座り、 普段から粗末な服を着ていたといいます。 ところが他の明治維新の元勲と 言われた人物たちの多くが、 豪邸を建てて贅沢な食事を 楽しんでいたのです。 そのことに対して、海舟は事あるごとに 怒りを露わにしていたといいます。 幕末にあれだけ立派な 人物たちの命が失われ、 その血の上にいまがある。 そのことを君たちは忘れたのか、と。 その一方で、 海舟は粗末な衣服を身にまとい、 かつては海舟よりも身分の 上だった役人たちの家を訪れては、 それとなく世間話をした上で、 毎回小銭をさっと置いていったといいます。 元幕臣も、明治の世になると ほとんどが食うや食わずの 生活をしていたわけですが、 海舟は徳川の世は終わろうとも 彼らの立場を重んじた。 そこには驕りを微塵も 感じさせない姿が見えてきます。 西南戦争を起こしたために、 長らく逆賊とされていた 西郷隆盛の名誉回復のために 政府を動かしたのも海舟でした。 |
2016.05.20 |
ルイス・フロイスの『日本史』 川崎 桃太(言語学者) 織田信長や豊臣秀吉など戦国武将たちの人物像や 当時の世相が克明に描かれた『日本史』。 実はこれ、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによるものです。 長いこと海外に眠っていたこの貴重な資料と、運命的な出合いを 果たした101歳の言語学者・川崎桃太さん。 ──先生は昨年、100歳にして 『フロイスとの旅を終えて今想うこと』 という本を出版しておられますね。 この本は2年がかりで ようやく書き上げたんです。 私にとってポルトガル人宣教師 ルイス・フロイスとの出会いは、 その著書『日本史』を目にした 五十九歳の時に遡ります。 それから既に40年以上が経ちますが、 その間に『日本史』の 日本語翻訳に携わったり、 『日本史』のダイジェスト版 なども出してきました。 ──フロイスの書いた『日本史』には、 どのようなことが 書かれているのでしょうか。 これは16世紀の日本、 つまり戦国時代にイエズス会から 派遣された宣教師フロイスが、 布教の途上で出会った 人物や出来事などを記録したもので、 資料的にとても価値があるものです。 なぜなら歴史というのは、 往々にして勝者によって 記録が残されるので、 例えば伝記が書かれるにしても 自分の不名誉になることや一族が 不利になるようなことは絶対に書きません。 ですからどうしても 歴史の歪曲がなされてしまう。 そこにくるとフロイスは文才に恵まれ、 なおかつその鋭い観察眼で 客観的に戦国時代の日本を 書き残しているんです。 つまり先入観のない外国人が、 見たままのことを克明に 記録してくれているので、 信憑性の非常に高い証言録 だといってもよいでしょう。 本当によくここまで詳しく 書いたなと感心するくらいの内容で、 織田信長や豊臣秀吉をはじめ 当時の武将たちの人物像や 当時の世相が描かれており、 おそらく大概の歴史家はこの 『日本史』を参考にしてきたでしょうね。 ──それだけ貴重な資料が、 長い間眠っていたわけですか。 私がフロイスの『日本史』 を見つけたのは、ポルトガルの 首都リスボンにいた時のことです。 いま思い返しても本当に不思議な体験で、 見えざる手に導かれるようにして 『日本史』に出合えたとしか 思えないんですよ。 私事 先日、知り合いより、 このフロイスの『日本史』全巻を頂戴しました。 私個人での所有はもったいないので、 茨城県日立市の明秀学園日立高等学校の図書館に寄贈しました。 |
2016.05.17 |
士大夫三日書を読まざれば 黄山谷(こうさんこく)の言葉 「士大夫三日書を読まざれば 則ち理義胸中に交わらず。 便(すなわ)ち覚ゆ、面目・憎むべく語言、味なきを」 立派な人物でも3日、 聖賢の書を読まなければ、 本当の人間学的意味における 哲理・哲学が身体に 血となり肉となって循環しないから 面相が下品になり、 物を言っても言葉が 卑しくなってしまうような気がするものだ、 と安岡正篤先生は説明されています。 吉田松陰は「士規七則」の中で 「人古今に通ぜず 聖賢を師とせずんば 即ち鄙夫(ひふ)のみ。 読書尚友は君子のことなり」 と言っています。 読書を通じて古今の聖賢を師として学ばなければ 卑しい人間になってしまう、ということです。 その松陰に、こういう逸話があります。 安政元年3月27日、 松陰は金子重輔(しげのすけ)と共に 伊豆下田に停泊していた アメリカの軍艦に乗り込もうとして失敗し、 下田の牢につながれます。 一夜明け、松陰は牢番に 「昨夜、行李(こうり)が流されてしまって、 手元に本がないから、 何かお手元の本を貸してくれませんか」 と頼みます。 牢番はびっくりして 「あなたたちは大それた密航を企み、 こうして捕らえられて獄の中にいるのだ。 どうせ重いおしおきを受けるのだから、 こんな時に勉強しなくてもいいのではないか」 この牢番の言葉に松陰はこう言うのです。 「凡(およ)そ人一日この世にあれば、 一日の食を喰らい、 一日の衣を着、 一日の家に居る。 なんぞ一日の学問、 一日の事業を励まざらんや」 (ごもっともです。 それは覚悟しているが、 自分がおしおきになるまではまだ時間がある。 それまではやはり一日の仕事をしなければならない。 人間というものは一日この世に生きていれば、 一日の食物を食らい、 一日の衣を着、 一日の家に住む。 それであるなら、一日の学問、 一日の事業を励んで、 天地万物への御恩に報いなければならない。 この儀が納得できたら、 ぜひ本を貸してもらいたい) この言葉に感心して、牢番は松陰に本を貸します。 松陰は牢の中で金子重輔に向かってこう言ったといいます。 「金子君、 今日このときの読書こそ 本当の学問である」 渡部昇一先生の付記 「牢に入って 刑に処せられる前にあっても、 松陰は自己修養、勉強をやめなかった。 無駄といえば無駄なのだが、 これは非常に重要なことだと思うのである。 いくら成長しても 最後には死んでしまうことに変わりはない。 この<どうせ死ぬのだ>という わかりきった結論を前にして、 どう考えるのか。 松陰はどうせ死ぬにしても最後の一瞬まで 最善を尽くそうとした。 ……これは尊い生き方であると思う」 腹中に書をもって生きた松陰の 面目躍如(めんもくやくじょ)たる話です。 |
2016.05.15 |
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