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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.329a

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一語履歴 vol.330
学問の目的 330a運がいい... 330b何のために 330cまず夢を
一語履歴 vol.329
素読は 329a一言一涙 329b誰にも負けない 329cお坊さんの後ろ姿
一語履歴 vol.328
棒切れ 328aお客さんに 328bもう懲りた 328c言志四録
一語履歴 vol.327
いましかない 327aおはよう 327b目の前 327c人として
一語履歴 vol.326
心の師となれ 326a大器晩成 326bへこたれるものか 326c作曲家の意図
一語履歴 vol.325
商品開発 325a共に学ぶ 325b大切な良薬 325c無常観
一語履歴 vol.324
成長できない 324aJALの奇跡 324b快GOツアー 324c叱って
一語履歴 vol.323
先人の知恵 323a人も運も 323b三鏡 323c恒久平和を 323dそばに居る
一語履歴 vol.322
自分の思い 322a喧嘩だけはするな 322b才幹に優先 322c言葉には意味
一語履歴 vol.321
韓非子 321a脳の動きが 321b読書が人を 321c先賢の箴言
一言一涙
       童門 冬二(作家)

伝馬町の牢にいた松陰を、言葉通り何くれとなく
世話をしたのは高杉晋作である。

晋作はなかなか機転がきいた。牢には牢名主というのがいて、
これがいろいろなことを取り仕切る。
牢名主に贈物を届けなかったり、機嫌を損じたりすると酷い目に遭う。
そこで晋作は自分から出掛けていって牢名主に賄賂を渡した。

「吉田先生のお世話をよろしくお願いいたします」

と頼んだ。松陰にも面会し、

「必要なものは何でもお届けします。
おっしゃってください。食物は大丈夫ですか?」

などと親身になって心配した。江戸の牢にいた松陰にとって、
高杉晋作が江戸にいて江戸藩邸にいてくれたことが
どれだけ救いになったか分らない。

高杉晋作のきき込みによっても、吉田松陰の扱いは
決して安心できるものではなかった。牢役人たちは、

「吉田先生は自分から何か恐ろしい計画のことを話して、
 評定所の方々を恐れさせた。重い罰が下るようだ」

という噂話をしていた。きき込んだ晋作は心配でたまらない。
まさかと思っていたことが実現しそうな気配にある。

ある日、晋作は松陰に面会した時きいた。

「先生、男子たるものの死に場所についてお教えください」

切羽詰まった問い掛けに松陰は澄んだ眼で晋作をみかえした。

こんな問い掛けをする晋作の気持ちがどういうものか、
松陰にはピンとくるものがあった。

それはすでに自分に対する刑罰が、
かなり重いものであることを意味していた。

松陰自身も、自分から間部詮勝の暗殺計画を話したのだから、
無事にすむとは思っていない。
(いよいよくるか)
そう思った松陰は、いつもにも増して丁寧に晋作の問いに答えた。

「男子たるものの死に場所についての
 きみの問いにはこういう答え方をしよう。
 もちろん死は人間の好むべきものではない。
 しかしだからといって憎むべきものではない。
 というのは、世の中に肉体は生きていても
 心の死んでいる者がたくさんいる。

 逆に肉体は滅んでも魂が生きている人間もいる。
 心が死んでいたのでは肉体が生きていても何の意味もない。
 才能や志のある者が一時の恥をしのんで生き、
 大事業をするというのは大切なことだ。

 私欲や私心のない者が、脇からみればむざむざと生を
 むさぼっているようにみえても、それはのちに必ず大事業を
 なすためなのだから、決して非難すべきではない。

 死んで不朽になる見通しがあるのならば、
 いつでも死ぬべきだろうが、反対に生きていて
 大事業をなす見込があるのなら、いつまでも生きるべきである。

 だから生死というのは度外視すべき問題である」

晋作には師のいうことがよく分った。
晋作もまたこの答をきいて、
(先生はすでに死を覚悟しておられる)
と感じ取った。

高杉晋作に、「萩へ戻れ」という命令が下った。
これが、10月初旬のことであり同月17日、
晋作は萩に向って旅立った。

このことを告げに伝馬町の牢へいくと、
松陰はしみじみといった。

「このたびの私の災厄に、きみが江戸にいてくれたので
 どれだけ助かったか分らない。僕はたいへん幸せだった。
 きみの好意に深く感謝する。急に国へ帰られるときいて、
 本当に残念でならない」

一言一言が高杉晋作の胸にそれこそグッと迫るものを持っていた。

かつて、東北の米沢藩主上杉鷹山が、
その師細井平洲を米沢に迎えた時のことを、

「一字一涙」

という表現で示した碑文が現地に残されている。
高杉晋作にとってこの時の師松陰の言葉はそのまま、

「一言一涙」

であった。この時松陰は晋作に、
一人ひとりの弟子についてその勉強ぶりや、
自分がいま心配していることなどを詳しく告げている。

普通なら、すでに死を覚悟した師の立場であれば、
おそらくすべての門人について褒め称え、

「がんばってもらいたい」

というような月並な言葉を残していくに違いない。
松陰は違った。たとえば、

「吉田栄太郎は周囲から志を放棄したと
 みられているから注意するように。
 また天野清三郎は才能を頼みすぎで勉強をしないから、
 学業が非常に劣っている」

などと、至らない弟子たちに対する注意事項も与えている。
いかにこの時になっても、
松陰が冷静な心を失っていなかったかが分る。

高杉晋作は師の言葉を正確に同門の志士たちに伝えた。

吉田松陰は安政6(1859)年10月27日、死罪の宣告をされ、
伝馬町の牢獄内で首を落される。

遺骸は、その頃処刑された国事犯が埋められる小塚原に埋められた。
国事犯なので遺体引き取りや墓を立てることは許されなかった。

そこで文久3(1863)年1月5日になって、京都朝廷が、
「いままでの国事犯を全部許す」
という大赦令が出たのをきっかけに、高杉晋作は、
久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)たちと一緒に、小塚原の刑場にいく。

そして白骨と化した師の遺体を掘り起し、
若林村(東京都世田谷区若林町)の毛利家の飛地に改葬する。
これが現在の松陰神社である。
 
2l019.01.17

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