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一語履歴WORD vol.289

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坂村真民さんの詩

「この道はあきることはない  あきる道は本ものではない
 この仕事はあきることはない  あきる仕事は本ものではない」

「こつこつこつこつ  書いていこう
 こつこつこつこつ  歩いていこう
 こつこつこつこつ  掘っていこう」
 
2018/02/15

井山 裕太 (囲碁七冠)
   
子供の頃はしょっちゅう負けては涙を流していましたから、
負ける辛さは本当によく分かっています。
ただ、師匠から「負けて涙を流しているだけでは何万回打っても強くなれない」と、
なぜ負けたのかを反省することの大切さを諭されました。

プロになってからは、正直言って自分がどこまでやれるかという不安が結構ありましたし、
最初に張栩さんに名人戦で挑戦して負けた時というのは、
この人に勝つのは本当に大変だろうなとも痛感しました。
それぐらい大きな差を感じて、ショックを受けたんです。

でも、それをこれからの自分に生かせばいいと
気持ちを切り替えてまた対局に臨み続けたんです。
タイトル戦ではもちろん負けもたくさん経験していますし、
その度に辛い思いもしますけど、すぐ次の対局が来ますので、
塞いでいる暇もないというのも正直なところです。

とにかくタイトル戦という最高の舞台で、
最高の相手と濃密な時間を過ごすことが一番勉強になるわけですから、
せっかくそういう機会を得たからには最大限に生かさなければなりません。

自分の場合は囲碁をずっと好きでやってきたわけですが、
そういう気持ちを表現する意味でも、
目の前の一手、一局に集中することはもちろん大切にしてきました。

対局中だけでなく、普段どれだけ囲碁のことを考え、しっかり向き合っているか、
その積み重ねが凄く大事だと思います。
いい時は誰でも頑張れると思うんですけど、
大変な時でも変わらずにそういう姿勢を持続するということは大事だと思いますね。
そういう意味では、どの世界でもそこで長く活躍されている方というのは凄く尊敬します。

自分はタイトルを取り始めてまだ数年ですし、
とにかく棋士として完成しているとは全然思いません。まだまだ弱いと思います。
ですからそういう尊敬すべき方々を目指して、
とにかくやれるところまでやってみたいという気持ちがいまは非常に強いですね。
 
2018/02/15

羽生 善治 (永世七冠)
   
私はきょうまで将棋を続けてきて、
一つのことに対して十年、二十年、三十年と同じ姿勢で、
同じ情熱を傾け続けられるのが才能だと実感しています。

それでも、長い間やっているとどうしても浮き沈みっていうのはあるんですね。
例えば、朝起きてきょうはちょっとしんどいなとか。
瞬間的なものなら無理してでもできるでしょうけど、
本当の長い歳月となると、どうしても上り下り、バラツキが出てしまう。
ですから、あまり前のことを振り返らないでやっていくことが、
長く続けていく上では大切なことなのかなとは思っています。

棋士としてのあり方という点では、いまでも印象に残っているのが、
亡くなった米長邦雄先生です。
私が初めて名人戦に臨んだ時の相手が、
前年に四十九歳で名人位に就かれた米長先生でしてね。

あの時の先生は、対局中に一回も膝を崩されなかったり、
並々ならぬ思いを込めて臨んでおられました。
勝負は、私が三連勝して名人位に王手をかけたんですが、
そこから先生が盛り返されて二連敗を喫してしまいました。
後で知ったんですけど、米長先生は私に三連敗した後、
負けたら引退するつもりで第四局に臨まれていたらしいんです。

ところが先生は、対局の合間の休憩時間などには、
立ち会いの内藤國雄先生と朗らかに談笑をなさったりして、
そういう覚悟は微塵も感じさせなかった。
並々ならぬ決意を持って勝負に臨みつつも、
そういう逆の振る舞いをあえてなさっていた姿が、非常に印象に残っています。
米長先生の世代の方とは、タイトル戦を戦う機会が少なかったので、
とても貴重な勉強をさせていただきました。
 
2018/02/15
かつて河野宗寛という禅僧がいました。
戦後の満州で戦災孤児たちの救援を行い、
300人を無事日本に連れて帰るという、利他行に生きた人です。
かの仏教詩人・坂村真民さんも、心から尊敬し師事されました。
そんな河野老師について、臨済宗円覚寺派管長の橫田南嶺さんが綴られています。

橫田 南嶺(臨済宗円覚寺派管長)
   
真民先生が心から尊敬し師事された河野宗寛老師とはどのような方だったのであろうか。
今年の2月に大乗寺50年忌の法要が一年早めて行われる。私もおまいりさせてもらう予定である。
 
宗寛老師は明治34年にお生まれになり、昭和14年、大乗寺に住され、
そこで四国唯一の臨済宗の専門道場を開かれた。
昭和17年には、満州に建てられた妙心寺の別院に赴任され、現地で禅の指導に当たられた。
 
しかし、終戦を満州の地で迎えられることになり、大変な混乱に巻き込まれてしまう。
一人だけでも帰国するのは至難であった。
 
しかし、老師は慈悲の深い方であった。
終戦の後に老師の眼に映ってきたのは、町にあふれる孤児たちの姿であった。
厳寒の満州では、「3日ぐらい食べなくてもよいが、冬に暖房がなければ一晩で凍え死ぬ」と言われた。
老師は、いち早く坐禅堂を孤児院に開放し、自ら私財をなげうって石炭を買い集め、
町にあふれる孤児たちをかくまわれた。「慈眼堂」が開かれたのだ。
 
当時の思いを「戦に敗れし日より憂きことは親のなき子らのさまよひあるく」と詠われた。
それまでは禅によってひたすら精神の鍛練を説かれた老師が、一転して多くの孤児たちの親となられたのだ。

「今日よりは親なき子らの親となり厳しき冬を守りこすべし」と決意を詠われている。
厳しい禅の老師が、多くの孤児たちの親となる様子を
「入りし日は笑みもせざりし子供らもわれにより添い戯れにける」と詠われた。
 
ソ連兵も来る、中共軍も入ってくるという内戦の戦渦の中を、老師は我が身を捨てる決意で孤児たちを守られた。
「夜もすがら床の柱に倚りて坐し修羅の世相に涙すわれは」
そんな中を孤児たちは、「子供らは朝な夕なのひと時を坐禅をなして身を修めいる」という日々を過ごした。

苦難の末にようやく、昭和21年7月に帰国できることになった。
「立つ鳥も跡は濁さじ此の園を掃き清めおけふき浄めおけ」と最後まで禅僧らしく勤められた。
「幼子に今日はみ国に帰るよと涙もろとも説き聞かせけり」と詠われたのを見ると、
どれほどのご苦労があったのか察するに余りある。

「み仏と同じ心の恵みもちこの荒海を子らと渡らん」
「親のなき子らをともなひ荒海を渡り帰らんこの荒海を」
およそ300名に及ぶ孤児たちを連れて老師は、8月無事佐世保に上陸された。
命をかけて、多くの孤児たちを祖国に渡り帰らせた。
 
2018/02/12

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