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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.140

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一語履歴 vol.140
松井秀喜の才能を...
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天才心臓外科医が開いた境地...
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明日は大事だが昨日はもっと大事...
一語履歴 vol.131
組織はそこに...
日米通じて20年間にわたりトップチームの主軸を担い、
2013年に国民栄誉賞を受賞した松井秀喜氏。

星陵高校時代に、
甲子園で5打席連続敬遠されたことは
あまりにも有名ですが、
その裏に隠された山下監督と松井選手との
師弟タッグをご存じでしょうか。

    「松井秀喜の才能を花開かせたもの」

   山下智茂(星稜高等学校野球部名誉監督)

――高校時代の松井秀喜選手はいかがでしたか?

いまでも忘れられないのが、入学した日、
「おめでとう」と言って握手した時のことです。

手が象の皮膚のように硬くひび割れていたのです。

ちょっとやそっとの素振りではああはなりません。
こいつ、どんだけ練習してんのや、とこっちが驚くほどでした。

才能もあったけど、才能を生かすための努力を怠りませんでした。
それにご両親もしっかりした方々で、
3年間で松井の両親と話したのは3回しかないんです。

まず入学に際して
「よろしくお願いします」。

ドラフトの時、
「先生、相談に乗ってやってください」。

そして卒業の時、
「3年間どうもありがとうございました」
の3回です。

野球部の中には、

「監督さん、なぜうちの子を試合で使ってくれないの?」
「なんでうちの子ばかり叱られるの?」

と言ってこられる親御さんもいますが、
松井の両親は100%息子を信じ、
学校を信じてくださっていたから、
一切口出しはなさいませんでした。

――松井選手とはいまでも親交があると伺っています。

義理堅いから、こっちに帰ってくると必ず挨拶に来るんです。
で、来るたびに僕が読んで「いいな」と思った本を彼に渡しています。

彼は高校時代、電車で1時間かかる町から
通っていたのですが、行き帰りで本を読むように勧めました。

最初は野球が上手くなってほしいから
野球の本を読ませていましたが、
次第に『宮本武蔵』や『徳川家康』などの歴史小説を薦め、
最後は中国の歴史書とか哲学書を読ませました。
プラトンとかアリストテレスとか。

本を読めば知識が広がるだけじゃなくて、集中力が高まるんです。
それは打席に立って発揮する集中力に繋がるんですね。

それに彼にはただのホームランバッターではなく、
王・長嶋に次ぐ本物のスターになってほしかったから、

「日本一のバッターを目指すなら心も日本一になれ」

といつも言っていました。

彼は最後の夏の甲子園で話題になったでしょう。

――5打席連続敬遠されても、
 平然と一塁に走っていった試合ですね。

実はあの前年、高校選抜で一緒に台湾に行ったんです。
現地の審判だから当然台湾びいきで、
顔の前を通ったような球もストライクにする。

松井は頭に来て、三振するとバットを
地面に叩きつけたんです。その時、

「おまえは日の丸をつけて来ているんだ。
 石川代表じゃない。球界最高のレベルを目指すなら、
 知徳体の揃った選手になれ」

と懇々と話をしました。

――先生のお話を翌年にはしっかりと理解されていたんですね。

ええ。彼がいた3年間は甲子園に連続出場できたし、
最後の国体では優勝もしました。
スケールの大きな夢を追いかけた楽しい3年間でした。
 
2015/05/14

誰しも嫌なこと、思い通りにならないことが
降りかかってきた時は、イライラするでしょう。

ところが、あのマザー・テレサは違いました。
いつ何が降りかかろうともキレなかったのです。

    「マザー・テレサの心の持ち方」

   渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)

先日、私はある講演会で、
「実は私もキレそうになるときがあるのですよ」
というお話をしたところ、聴衆に大変喜ばれました。

修道者とはいえ、忙しいときの電話や思い通りにならないこと、
「どうして!」と、イライラすることがあるのです。

私はマザー(テレサ)から、キレそうなときに、
キレないですませる方法を教えていただきました。

あれは1984年11月に来日されたときのことでした。

岡山駅までお迎えにあがると、
辺りはテレビや雑誌の記者、一般の人で
黒山の人だかりができていました。

マザーがお着きになると本当に文字通り
「フラッシュの雨」が降ったのです。

その後、どこへ行っても、
「マザー、こっちを向いてください」
「次はこちらを」
とびっくりするほどたくさんの写真を撮られて……。

異国の地での厳しい講演日程に加えて、
新幹線や車など慣れない乗り物での長距離の移動、
当時マザーは74歳でした。

肉体的にも精神的にもお疲れでしょうに、
マザーは嫌な顔ひとつせずにニコニコと、
本当にすてきな笑顔で応対していらっしゃったのです。

私は内心、
「マザーはカメラ慣れをしていらっしゃるのかしら。
 それとも写真がお好きなのかしら」
と思っていましたが、口には出さずにおりました。

夜10時を回ったころだったでしょうか、
ようやくすべての予定を終了して修道院にご案内し、
2人で肩を並べて歩いていると、マザーがふと、

「シスター、私はフラッシュがひとつたかれるたびに、
 死にゆく魂が神様のみもとに
 安らかに召されるように
 神様と約束をしてあるのです」

とおっしゃったのです。

生きている間、いいことがちっともなくて、
神や人、世間を呪っていた人たちの魂が
「サンキュー」と言って穏やかに、
この世と和解して死んでいくために、
煩わしいけれど、疲れているけれど、笑顔をするんです、と。

その上、

「今日はまだ祈っていないから」

と、寒いチャペルでストーブもつけずに、
寝る前に一時間お祈りを捧げられました。
マザーは祈りを大切にした方でした。

私はそんなマザーの姿を拝見して、
人には「自分の心との葛藤」と「自分と対話するゆとり」が
必要なのだと感じました。

日常の中には、マザーにとってのフラッシュのような
「煩わしいもの」や「イライラするもの」
「面倒くさいもの」が、必ず存在します。

そういうときにグッと我慢をして、

「これを我慢しますから、
 どうかあの人の病気が治りますように」

と他人を思いやったり、「仕方がないよね」と許す
「ゆとり」を自分の中につくる。

キレそうになる自分を抑えるための、
自分との小さな闘いが必要なのです。

逆に失敗したときは自己嫌悪に陥るのではなくて、
「今度はもうちょっと我慢しようね」と自分と話してみる。

マザーが「マザー・テレサ」であり続けることができたのは、
そういう自分自身との闘いと、ゆとりを
常に持ち続けていらしたからではないでしょうか。
 
2015/05/13
昭和20年3月10日、
東京が米軍による大空襲に遭い、
たった2時間のうちに10万人が亡くなりました。

早いものであれから60年。
当時11歳だった私も70歳になり、これ以上齢を重ねては、
戦火の恐ろしさと平和の大切さを後世に伝えることができなくなる。

その思いに駆られ、3年前から慰霊碑と母子像を建立したい
という思いを抱いていました。

慰霊碑と母子像の二つも建立するとなると大事業です。
何度も無理かと思う場面がありましたが、

「お母さん、こんな機会はもうないから
無理してでもやったほうがいい」

「私のお年玉の貯金を全部ばあばにあげる」
と子や孫に背中を押されました。

その他にも数え切れないくらい多くの方々に励ましていただき、
戦後60周年である今年の3月9日、
無事除幕式を迎えることができました。

その時、下の息子が「空襲で亡くなった10万人の方が
お母さんに力を貸してくれたんだね」

と言いましたが、私もまったくその通りだと思っています。

その力を貸してくれた10万人の中には、
私の両親と3人の兄弟がいます。

私は戦火を逃れるため、前年の昭和19年に
静岡県沼津市のおばの家に一人で縁故疎開しました。

出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けるとわくわくしていましたが、
母は涙をぼろぼろこぼしながら、お守りを首からかけてくれると、

「かよちゃんは明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
と何度も、何度も言うのです。

母があまりにも悲しい顔をしているので、
だんだんと心細くなってきました。

「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」
と呟くと、母は私の心細さを取り払ってくれるかのように、
「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。
明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
と何度も何度も繰り返しました。
   
それが最後の言葉となりました。

 空襲後、生き残ったのは疎開していた私と、
すぐ上の兄・喜三郎だけでした。

兄は家族五人が亡くなったことを伝えるため沼津までやってきましたが、
きっと焼け爛れた死体の山をまたいで、
汽車にぶら下がるようにして東京からきてくれたのでしょう。

その夜、私は兄にしがみ付きながら、いつまでも泣いていました。

戦中戦後の動乱で誰もが生きていくのに精一杯の時代、
二人もおばに世話になるのは悪いと、兄はあてもなく東京へ戻り
私は引き続き沼津のおばの家に残りました。

そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。

どうにか置いてもらおうと一所懸命お手伝いをしましたが、
ある冬の日、瓶に水を張っていないという理由で、
おばにものすごく叱られました。

それまでは「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」と思っていましたが、
その日はひどく悲しくなって家を飛び出しました。

向かったのは、昔家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。

焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、
目を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。

「どうしてみんな私を一人にしたの?もうこのままでいいや……」

その時、一人の復員兵が通りかかりました。

私の前で立ち止まり、鞄の中から一本のさつまいもを取り出したかと思うと、
半分に割って差し出しました。

「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」

物が食べられない時代、
見ず知らずの人が食糧を分けてくれることなど考えられないことです。

私は夢中になって頬張りましたが、
ふとお礼を言うのを忘れたと気づき、振り返りましたが、
もうそこには誰もいませんでした。

いまにして思うと、あれは神様だったのかもしれません。
神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。

さつまいもを食べて元気になった私は、走っておばの家に戻りましたが、
しばらくするとその家にもいられなくなりました。
伝手で転々とする中で、つらいことはたくさんありました。

でも拗ねたり、挫けたり、横道に逸れるようなことはしませんでした。
それは両親に愛された記憶があるからです。

悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、
こんなことで泣いたら、別れ際に
「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた母ちゃんが悲しむ。

それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。
 
平和な時代に生きるいまの人たちには、
子どもをいっぱいいっぱい愛してやってほしいと思います。

親に心底愛された子どもは、苦境に遭っても絶対に乗り越えていけます。
そしてもう二度と戦争によって私のような悲しい思いを、
地球上のすべての子どもたちにさせられません。

それが戦後60年の節目に願うことであり、
私のすべての活動の原動力になっています。
 
2015/05/13

創業211年の歴史を有する
大手総合建設会社の清水建設。

驚きの深海未来都市構想や宇宙ホテル、
海上に浮かぶ環境アイランドなど、
驚くべき夢の挑戦を続けています。

売上高1兆3千億円、社員1万1千人を超える組織を
率いているのが宮本洋一社長です。

  仕事の鉄則は「約束を守る」と「段取り八分」

      宮本洋一(清水建設社長)

いまでも鮮烈に記憶していることがある。

ある現場で、鉄筋圧接工の親方に、

「次はこの日に来てください。
 それまでにこういう段取りをつけておきますから」

と約束していたにもかかわらず、
作業が予定どおり進まないまま、
当日を迎えてしまった。

彼は現場に現れるや否や、

「これじゃ、仕事にならない。
 俺たちは請け負った仕事をして日銭を稼いでいる。
 部下にもちゃんと給料を払わなきゃいけない。
 どういうつもりだ。もう二度とおまえのところには来ない」

と言って、怒って帰ってしまったのである。

それまでその人とは非常に仲良くしていて、
信頼関係を築けていたのだが、
私のたった一回のミスによって
ひと溜まりもなく関係が壊れてしまった。

当日までにきちんと段取りをつけることが大前提であるし、
それが仮にどうしてもできなかったとしたら、
前もって事情を説明し、
「あと1、2日延ばしてほしい」と言うのが筋だろう。

結局その時は、その会社の社長が取り持ってくれて、
その後も継続して仕事を頼むことができたのだが、
完全な関係修復にはなかなか至らなかった。

仕事は一人ではできない。
いろいろな人との連携によってつくり上げていくものである。

ゆえに、仕事で大事なことは信頼関係であり、
信頼関係を築くためには「約束を守る」ことが最も大切だ。

裏を返せば、「できない約束はしない」ということである。

建設現場では「段取り八分」とよく言われている。
準備、段取りさえきちんとできていれば、
その仕事の八割は完結したようなもの。

これも仕事を遂行する上で要となる教えだろう。
段取りの大切さ、それを疎かにした時に
失うものの大きさを、私は身を以て学んだ。

「入社して最初の5年間は
 会社に負担をかける存在でも構わない。
 次の5年間は成功もするけど失敗もする。
 そして、10年経ったら会社に
 貢献する人間にならなければならない」

これはいま私が若い社員によく言っている言葉だ。

誰もが失敗は避けたいと思うし、
成功体験を追い求めるだろう。

しかし、失敗を繰り返すことが
人間を成長させることに繋がるのであって、
決して失敗を恐れてはならない。

私の経験からしても、人間は失敗したり
上手くいかなかったことほどよく覚えているし、
その経験が人を一段階上へ上へと押し上げる原動力になる。

様々なことに挑戦して、跳ね返されて、また向かっていく。
そういうことを繰り返す中で人間は大きくなるのだ。

ただし、同じ失敗は二度してはならない。
その前提のもと、失敗を恐れずにチャレンジ精神を燃やし、
熱意を持って真剣に仕事に打ち込む。

20代の10年間で一番必要なのは、
この姿勢を身につけることだと思う。
 
2015/05/12

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