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木猫 勝軒という剣客の家に大きな鼠が出たことから話は始まる。 鼠捕りの上手い猫で、黒猫、虎猫、灰色猫をかりてきてくるが、 鼠を捕らえることが出来ず、勝軒自らが木刀でこらしめようとするが、上手くいかない。 そこで、召使に頼んで無類の強さを誇る古猫を借りてきた。 その猫は大してかしこそうでもなく、はきはきしたところもないが、鼠の部屋に入れてみると、 鼠はじっとして動けなくなり、あっさり捕まえてしまうというお話だ。 その後で、この古猫に他の猫や勝軒が教えを乞う。 はじめに黒猫「今まで鼠を取ることを仕事にする家に生まれて、 どんな早業も軽業もやってきた。失敗したことは一度もないのに今回は残念だ。」 それに対し古猫「あなたの学んだのは技術だけにすぎない。 昔の人が技術を教えたのはその筋道やその中にある深い真理を理解させるためであって、 技術だけを磨くことには何の意味もないことだ。」 次に虎猫「今まで気勢というものを大切に今までやってきた。 そして相手の鼠に対して睨みつけ、気合で圧倒し、たけだけしく張りあげてどんな動きにも対応してきた。 しかし今回の鼠は動きが早く、相手を圧倒することが出来なかった。」 それに対し古猫「あなたの修練してきたのは、相手より常に上をいくという自負心の中で成り立ち、 それを越える強さのものには対応できるのか。 今度は灰色猫「気勢盛んなものは形にあらわれる。 そこで私は気勢をはらず、物を争わず、和して矛盾せず、 ちょうど投げた石を幕で受け止めるようなものと考えてきた。 しかし、今回は勢にも負けず、和にも同ぜず、 振る舞いは神のようであり、とらえることが出来なかった。」 それに対し「君の和は自然のものではなくまだ作為した和である。 敵の鋭意をはずそうとしても、君の心にそういう思いがあると、すぐに察知される。 そこで、無念無為にしておると、名人の境地であるから敵対するものがなくなる。」 最後に勝軒「今晩の皆さん方の意見を聞いて剣術の極意を知った。 そこで何をもって敵なく我なしというのか。」 それに対し「剣術というものは人に勝つためではなく、大事に臨んで生死の道を明らかにする術だ。 だからこそ、精神の修養と技術の練磨を怠ってはならない。 そこでまず、生死の理を良く知り、その精神をゆがめず、 他人を疑ったりせず、ゆったりと落ち着いていれば、どんな変化にも応じられるだろう。 少しでも心に為さんとする心があれば、形にあらわれ争いがおこる。 心には元来形はなく、物を蓄えるということもできない。自分が無物だというものは、蓄えず、偏らず、敵もなければ我もない、つまり無思無為という状態であり、無意識で森羅万象に充満していることを言う。 これを考えると、我があるから敵があり、我がなければ敵がないといえる。陰陽水火のように相対するものであるゆえに、心に形がなければ対立するものも無くなるのだ。 心と形を共に忘れ、思いのままに動けるようになれば、 自分の心から苦楽、損得という境界をつくらずに、良いの悪いの、好む憎むのない世界になるであろう。 天地は広大であっても、この境地に達すれば、結局は心の外に求むべきものはないことがわかってくる。 だからこそ伝えようと思うが、どんな状態でも心は自分のものであり、 いかに大敵でも志だけはどうすることもできないものだ。 孔子は『匹夫も其の志を奪うべからず』と言う。 まさにその通りだと思う。 ただしひとつ注意するとすれば、迷う時は却ってその心が敵の助けになるであろう。 あとは自分で反省し、求めなさい。」 安岡正篤はこの『木猫』の最後の解説を次のように締めくくっている。 師はそのことを伝え、その道理をさとすだけですから、その真実を得るのは自分である。 これを自得と言い、以心伝心といい、教外別伝と言うのである。 自得とは自分が自分をつかむことであり、教外別伝とは、 言葉や形では本当の真理深層を伝えられないということである。 |
2015.05.03 |
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