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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.255

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一語履歴 vol.259
大切な知恵 259a人間愛 259b本当の自分 259cお恵みの一部でも
一語履歴 vol.258
日本の運命 258a宝物ファイル 258b森信三 258c幸せ発信地
一語履歴 vol.257
財政再建 257a人の三倍 257bはちみつ 257cお客さん
一語履歴 vol.256
ソクラテス問題 256a卑しい仕事 256b日本の 256cなごやかさによりて
一語履歴 vol.255
あの時 255a商品がある 255bお店が必要 255c二宮尊徳の教え
一語履歴 vol.254
リーダーの資質 254aこの4年間 254b「よし」 254c自分に対して
一語履歴 vol.253
鍵山秀三郎 253a黒だよな 253b自己の指名 253C師を必要とする
一語履歴 vol.252
命は深い 252a作家として 252bお店を繁盛 252c国家の柱石
一語履歴 vol.251
東洋や西洋 251a日本の心学 251b何気ない言葉 251cハートが
あの時
     白駒 妃登美(ことほぎ代表)
   
戦国武将・宇喜多秀家とその妻・豪姫。
日本史上、ひときわ輝く夫婦の物語です。

前田利家とまつ夫妻の四女・豪姫は、
子のなかった豊臣秀吉と
ねね夫妻のもとで、
養女として大切に育てられました。

一方、宇喜多秀家は10歳で
父・直家を病で失うと、
後を託された秀吉の手で
立派な武将に育て上げられます。

二人にとって秀吉は
育ての親であるとともに、
結婚をとりもってくれた
恩人でもあったのです。

その秀吉が死ぬ間際のこと。
側室の淀殿との間で晩年にもうけた
秀頼の行く末を案じた秀吉は、
豊臣政権を支える五大老を
枕元に呼びます。

そこには徳川家康、前田利家、毛利輝元、
上杉景勝ら重鎮が居並ぶ中、
ただ一人、二十代の
宇喜多秀家の姿もありました。

「返す返すも頼みまいらせ候」

と何度も頼む秀吉を目の当たりにして、
今度は自分が秀頼様をお守りする番だと、
秀家は心に誓ったことでしょう。
 
それから二年後の慶長5(1600)年、
関ヶ原の合戦においても、
秀家は何の迷いもなく
石田三成率いる西軍につくと、
その中軸として約6時間に及ぶ
合戦を戦い抜くのです。

しかし秀吉への恩返しを誓った
秀家の奮闘虚しく、
相次ぐ裏切りの末に西軍は敗北。

敗軍の将となった
宇喜多秀家に科されたのは、
八丈島への流罪でした。
 
豪姫は夫とともに
八丈島に渡ることを切望しますが、
許されません。

当時は夫婦が何らかの理由で
別れて暮らす場合、
息子は父方に、娘は母方に
引き取られるのが常でした。

そのため豪姫は娘とともに前田家へ、
二人の息子は秀家に伴われて
八丈島へと向かったのです。
 
自然環境の厳しい
八丈島での暮らしは、
秀家にとって苦難の連続でした。

そんな秀家を何とか
助けたいと願った豪姫は、
前田家を通じて幕府の許可を得ると、
毎年のように米や金子、
衣類、雑貨、医薬品などを
仕送りしたのです。
 
ある時豪姫は、
絵師に描かせた自分の肖像画を
荷物の中に紛れ込ませ、
八丈島に送りました。

その肖像画はいまも
秀家の子孫がお持ちだそうですが、
その肖像画の写しが、
豪姫の菩提寺である
大蓮寺(石川県金沢市)にあります。

色使いも含めて実に綺麗に
描かれているのですが、
よく見ると額の辺りだけ色が薄く、
消えかけているのが分かります。

これは八丈島に流された
まだ幼い息子たちが、
毎日のように涙を流しながら
「母上、母上……」と
額の辺りを撫でていたために
そうなったのです。
 
若くして秀家と
離れ離れとなった豪姫でしたが、
その後は再婚話をすべて断り、
金沢で61年の生涯を閉じました。

いつかまた愛する家族と
一緒に暮らしたいという
豪姫の祈りは、残念ながら
天に届くことはありませんでした。
 
もっとも、彼女のもう一つの祈りを
天は聞き届けてくれたようです。

来る日も来る日も
家族の無事を祈った豪姫。

彼女が亡くなった時、
八丈島に流された三人は
まだ健在だったのです。

それどころか
人生50年といわれていた時代に、
秀家は八丈島で49年生き長らえ、
83歳で生涯を閉じました。

きっと人の思いというのは
時空を超えて、
相手に届くのでしょう。
 
その後、
八丈島に住む宇喜多家への仕送りは、
加賀藩によって途切れることなく
幕末まで続けられました。

しかも新政府によって罪を解かれた
宇喜多一族を船で迎えに行き、
東京に住む家を用意して、
生活の面倒までみたというのです。

秀家と豪姫の時代から
既に400年余りが経ちましたが、
いまも大蓮寺にある豪姫の肖像画に
「あの時はありがとうございます」
と手を合わせに来る
八丈島の人がいるといいます。

「あの時」というのは、
八丈島が飢饉に見舞われた時のことで、
秀家は豪姫からの仕送りを、
惜しげもなく飢えに苦しむ
島民たちに分け与えていたのです。
 
秀家と豪姫から受けた恩を
400年にわたって語り継ぐとともに、
500キロ離れたお寺まで
お参りに訪れる島民たち。

私はその姿に、
恩を尊ぶ日本人の美しさが
見事に表れていると思うのです。
 
2017,06,17

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