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社員の心の荒(すさ)みをなくしたいと イエローハット創業時から 黙々と掃除の実践を続けてきた鍵山秀三郎さん。 その掃除の実践の輪が 大きく広がっていく中で、 鍵山さんの思いも 日本社会全体から心の荒みを なくしたいという 大きな願いへと膨らんでいきました。 ◆ 温かい社会をつくるためにできること ◆ 鍵山秀三郎 (日本を美しくする会相談役) 昔の人は、「私」よりも 「公」を優先しました。 貧しい中でも、道普請など公共の仕事にも 当たり前のように参加していました。 しかし現在はすべてを行政に依存し、 それに伴い私的な欲望が膨らむ一方です。 社会の絆が断ち切られ、 善良な人までが悪いほうへ 引きずられているように思えてなりません。 フランスの文学者、ラ・ロシュフーコーは、 「人生は一大事によって 変わるものではない。 日々の小さな出来事が 思わしくいったか、 いかないかによって決まるものだ」 と説いています。 確かに、私もこれまで命に関わるような 大事件に何度も遭ってきましたが、 意外にもそれによって 心が荒れることはありませんでした。 むしろ、靴の踵を踏まれたとか、 すれ違いざまにぶつかったといった、 日常の些細なことで 人は心を荒ませるものです。 心の荒みは人から人へ伝染し、 社会を乱し、人類を崩壊にも 追いやる恐ろしい力があります。 一人ひとりが小さなことにも 気を配って公の心を取り戻すことで、 この社会から心の荒みが なくなることを願ってやみません。 |
2016/01/12 |
すごい人がいました。 その方はよくスーパーや 百貨店などで見かける マネキン販売のプロ。 なにせ、どんな商品でも その方の手に掛かれば どんどん売れてしまうという 嘘のような本当の話。 もともとはダメ販売員だった というその方が、いかにして 何でも売れる販売員へと 生まれ変わったのでしょうか? ◆ 売れるための3か条 ◆ 橋本和恵 (売れる売れる研究所代表) 現場に立つ以上は やるしかないと覚悟を決め、 次の三つのことを実行し始めました。 一つは、「何でも試してみる」ことです。 例えば、真っ正面から お客様にお声掛けした場合と、 横からお声掛けした場合とでは、 アプローチできる確率が 違ってくるんですね。 あるいは、髪の毛や着るシャツの色を 何色にしたら売れるかなど、 500回に及ぶ様々な店頭実験を 繰り返したんです。 そのうち約350回は失敗したんですが、 面白いことに、 約150回は成功したんですよ。 ――どんなことが分かりましたか。 先ほどの例で言えば、 正面よりも横から蟹歩きで 近づいていったほうがお客様と お話しできる確率が高まるとか、 黒色よりも桜色のシャツを着た時のほうが、 お客様の反応がよくなるとか……。 二つ目は、「ものまね」をすることです。 「あの店に販売のうまい人がいる」 と耳にすれば、とにかく カメラや録音機器などを入れた リュックサックを背負って、 「どういう販売をするのだろう」 と観察しに行き、優れたところは どんどん取り入れていきました。 そして、三つ目が「録音」することです。 自分が店頭に立つ際には、 必ずお客様とのやり取りを録音するようにし、 勤務が終わったら近くの喫茶店に行って 夜遅くまで延々と録音を聴きました。 きょうの自分のセールストークは どうだったかと客観的に見て、 日々改善を繰り返していったんですね。 そのような試行錯誤を 地道に続けていくうちに、 だんだんどうすれば売れるかが 分かっていきまして、 三年目ぐらいから、売り上げが 急激に上がり始めたんです。 |
2016/01/12 |
◆「運」をつかむ努力の仕方 ◆ 上野金太郎 (メルセデス・ベンツ日本社長兼CEO) 私自身の体験を踏まえて、 よく若い社員に言っているのは、 「自分の軸をしっかり持つ」 ということである。 決して難しく考える必要はないが、 いま携わっている仕事に対して、 どうしてこれをやっているんだろうと 自分に問いかけ、目的を明確にする。 きょう一日をどう過ごすのか、 自分なりのビジョンを 持って組み立てていく。 ただ単に上司や先輩に言われたからやる。 こういう“やらされている感”で 仕事に取り組むことが 一番くだらないと思う。 どうせやるなら 最善でなければ意味がない。 中途半端が一番ダメである。 どんな仕事であれ、 自分が任されたということは 期待の表れであるわけだから、 その期待に応えていく生き方を貫くべきだ。 学生時代は、学費を払って 勉強させてもらうのに対して、 社会人は労働の対価として 給料をいただいている。 それが高いと思うか 安いと思うかは本人次第だが、 いずれにしても縁あって その会社に入ったのであれば、 与えられたポジションの 仕事を一所懸命やるのみ。 私は人生の90パーセントは 運で決まると思っている。 努力は残りの10パーセント。 しかし、その90パーセントの運を掴むには 10パーセントの要素でしかない努力を、 150パーセント、200パーセント 出し切ることが不可欠であることを ぜひ伝えたい。 |
2016/01/09 |
「母の死を機に始めた『論語の素読』」 伊與田覺(論語普及会学監) 私は大正五年、高知県の西の九十九湾という 海岸の片田舎に生まれました。 姉が三人おり、初めて生まれた男の子ということで、 家族の喜びは大変なものでした。 とりわけ母は私を溺愛し、方々に連れて行っては 「この子は必ず学校の先生にします」と吹聴して回ったようです。 そして小学校の先生に頼み込み、 私を学齢の一年前に見習いとして入れたのです。 当時の一年生はまだノートを使わず、 石盤に石筆で文字の稽古をし、 よく書けたら先生から三重丸をもらいます。 母に見せたい一心で、それを消さないように大事に持って帰ると、 母はいつも「よかったねぇ」とニッコリ笑って褒めてくれました。 私は嬉しくてたまらず、母の胸に飛びついて乳を飲むのでした。 ところが見習いになって三か月くらい経った頃、 三重丸をもらって勇んで帰ってくると、 母が寝込んでいました。 暑い日が続いたから日射病の類だろう、 心配は要らないとのことでしたが、 二、三日して病状が急変し、 そのまま亡くなってしまったのです。 私はその時からもう学校に行かなくなり、 母恋しさで朝から晩まで泣き暮らしました。 家族も困り果て、心配した父から相談を受けた伯父に、 私は『論語』の素読を教わったのです。七歳の時でした。 伯父は、地元でよく知られた田舎学者でした。 私はまだ片仮名もようやく覚えるか覚えぬかという時分でしたから、 伯父に与えられた白文の『論語』は意味もさっぱり分かりませんでした。 けれども韻を踏んだ文章は声に出して読むと実に心地よく、 毎日家中に響き渡るような大声で素読を繰り返すようになりました。 そうして一つ暗誦すると、 次の部分をまた伯父の所へ教わりに行くのです。 伯父の家は山を二つ越えた向こう側で、 深い森林に囲まれた寂しいところでしたが、 そこへ一人で通い続けるうちに、 小学校三年の頃には『論語』の全文をほぼ暗記してしまいました。 そうすると面白いことに、 下の姉が持っていた上級生向けの教科書を開いても、 読めない漢字は一語もなくなりました。 以来『論語』の素読は、 私にとっては三度の食事と同じように自然な日々の営みとなり、 百歳になる今日まで続いているのです。 |
2016/01/07 |
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