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母の死を機に始めた『論語の素読』 伊與田覺(論語普及会学監) 私は大正五年、高知県の西の九十九湾という 海岸の片田舎に生まれました。 姉が三人おり、初めて生まれた男の子ということで、 家族の喜びは大変なものでした。 とりわけ母は私を溺愛し、方々に連れて行っては 「この子は必ず学校の先生にします」と吹聴して回ったようです。 そして小学校の先生に頼み込み、 私を学齢の一年前に見習いとして入れたのです。 当時の一年生はまだノートを使わず、 石盤に石筆で文字の稽古をし、 よく書けたら先生から三重丸をもらいます。 母に見せたい一心で、それを消さないように大事に持って帰ると、 母はいつも「よかったねぇ」とニッコリ笑って褒めてくれました。 私は嬉しくてたまらず、母の胸に飛びついて乳を飲むのでした。 ところが見習いになって三か月くらい経った頃、 三重丸をもらって勇んで帰ってくると、 母が寝込んでいました。 暑い日が続いたから日射病の類だろう、 心配は要らないとのことでしたが、 二、三日して病状が急変し、 そのまま亡くなってしまったのです。 私はその時からもう学校に行かなくなり、 母恋しさで朝から晩まで泣き暮らしました。 家族も困り果て、心配した父から相談を受けた伯父に、 私は『論語』の素読を教わったのです。七歳の時でした。 伯父は、地元でよく知られた田舎学者でした。 私はまだ片仮名もようやく覚えるか覚えぬかという時分でしたから、 伯父に与えられた白文の『論語』は意味もさっぱり分かりませんでした。 けれども韻を踏んだ文章は声に出して読むと実に心地よく、 毎日家中に響き渡るような大声で素読を繰り返すようになりました。 そうして一つ暗誦すると、 次の部分をまた伯父の所へ教わりに行くのです。 伯父の家は山を二つ越えた向こう側で、 深い森林に囲まれた寂しいところでしたが、 そこへ一人で通い続けるうちに、 小学校三年の頃には『論語』の全文をほぼ暗記してしまいました。 そうすると面白いことに、 下の姉が持っていた上級生向けの教科書を開いても、 読めない漢字は一語もなくなりました。 以来『論語』の素読は、 私にとっては三度の食事と同じように自然な日々の営みとなり、 百歳になる今日まで続いているのです。 |
2016.01.07 |
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