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12月23日は天皇誕生日。 第125代の明仁天皇陛下は 満80歳となられました。 ところで、皆さんは 普段、天皇陛下がどんなことをなさっているのか、 どんなお気持ちで日々過ごしていらっしゃるのか、 ご存じでしょうか。 それらは一般にはほとんど知られていません。 天皇皇后両陛下の侍従長として、 10年半にわたり、お仕えしてきた 前侍従長・渡邉允さんが語った 両陛下の知られざるご日常、 胸に秘めたる思いとはいかなるものか――。 「一年を通して働きづめの両陛下」 渡邉允(前侍従長) 両陛下は毎朝6時にはお目覚めになり、 お二方で吹上御苑の森の中を散歩なさっています。 驚くべきことに、ご病気の時を除いて、 この6時起床を変えられたことはありません。 普通はその日の予定に合わせて起床時間を決めたり、 休みの日は遅くまで寝ていたくなるものでしょう。 しかし、1年を通じてその時間を変えない という規律を自らに課しておられる。 そこに私は、陛下の一貫した 強靭な意志力を垣間見る思いがします。 私が毎朝9時に出勤すると、 両陛下は既に書斎に入られ、 いつもお仕事をされていました。 両陛下の1日は 本当にお忙しいものです。 例えば、まず午前中、 宮中三殿で宮中祭祀を執り行われた後、 午後は宮殿に行かれて社会福祉関係者の拝謁や 認証官任命式(国務大臣その他の官吏を任命し、 辞令を交付する儀式)がある。 その後、新しく着任した 外国大使夫妻のためにお茶会をなさり、 夜は御所で、近く訪問予定の国の歴史について 学者の話をお聴きになる。 通常、夜10時半が御格子(陛下が御寝になること) となっていますが、 たいてい両陛下はそれ以後も、 翌日の行事のための資料や 式典で読まれるおことばの原稿に目を通したり、 外国の国王王妃にお手紙を書かれたりされているようです。 このように朝から晩まで 次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、 それが1年を通して続くことになります。 両陛下がお出ましになる大きな行事や式典は、 休日や祝日に行われることが多いため、 5日働いて2日休むという生活のリズムもないのです。 そこまでしてご公務に邁進される陛下の根底にあるもの―― それは「国民のために」という思いにほかなりません。 陛下のその思いが一つの形として 具現化される場が「宮中祭祀」です。 宮中祭祀とは、 陛下が国家国民の安寧と繁栄を お祈りになる儀式のこと。 陛下の1年は、元旦朝5時半から 執り行われる「四方拝」で始まります。 外は真っ暗、しんしんと冷えている中、 白い装束を身にまとい、 神嘉殿の前庭に敷かれた畳の上に正座され、 伊勢神宮をはじめ四方の神々に拝礼される。 その後、宮中三殿に移られ、 「歳旦祭」を執り行われます。 宮中三殿とは賢所、皇霊殿、神殿の総称で、 それぞれ天照大神、歴代天皇と皇族の御霊、 八百万の神々が祀られています。 そこで五穀豊穣や国民の幸福をお祈りになるのです。 陛下が執り行われる宮中祭祀は 年間20回程度ありますが、 その中で最も重要とされる祭祀が 11月23日の「新嘗祭」です。 その年に収穫された農産物や海産物を 神々にお供えになり、 神恩を感謝された後、 陛下自らもお召し上がりになる。 夜6時から8時までと 夜11時から深夜1時までの2回、 計4時間にわたって執り行われ、 その間、陛下はずっと正座で儀式に臨まれます。 我われも陛下がいらっしゃるお部屋の外側で、 同じように2時間正座を続けるのですが、 これは慣れている人でも難儀なことです。 私は毎年夏を過ぎると 正座の練習を始めていました。 ある時、陛下のもとに伺うと、 居間で正座をしながら テレビをご覧になっていたことがありました。 やはり陛下も練習をなさっているのかと思ったのですが、 後からお聞きしてみると、陛下はこうおっしゃったのです。 「足が痺れるとか痛いと思うことは一種の雑念であって、 神様と向き合っている時に雑念が入るのはよくない。 澄んだ心で神様にお祈りするために、 普段から正座で過ごしている」 その取り組み方一つとっても、 専ら肉体的な苦痛を避けたいと思っていた私とは まるで次元が違うと感服した瞬間でした。 元旦の「四方拝」「歳旦祭」に始まり、 春分の日の「春季皇霊祭」、 秋分の日の「秋季皇霊祭」、 天皇誕生日の「天長祭」など、 宮中祭祀の多くは国民の祝日に行われています。 つまり、私たちが休んでいる時に、 陛下は国民の幸福をお祈りされているのです。 そのことを私たちは忘れてはなりません。 |
2013/12/24 |
ホテル、ウエディング施設の企画運営など 6つの事業を展開している 「ポジティブドリームパーソンズ」。 30歳で同社を創業し、16年経ったいま、 年商100億円を超える組織へと 導いてきた杉元崇将氏の原点にあるもの――。 それは、起業という明確な目標に向かって 疾走を続けた20代だったといいます。 いま注目の若手経営者・杉元氏が語った 「20代を生きる上で大切なこと」とは何か。 「自分のレピュテーションを上げよ」 杉元崇将(ポジティブドリームパーソンズ社長) 数ある有力企業の中で、 とりわけ私の心を捉えたのが、 オフィス家具の老舗・イトーキでした。 同社は間近に控えた創業100周年を機に上場を計画し、 「日本のオフィスワークに革命を起こす」ことを謳っていました。 その熱いベンチャースピリッツに共感を覚えるとともに、 上場が会社のカルチャーにもたらすインパクトを 肌で感じてみたいと考え、入社を決意したのです。 同社では、エリア毎に担当を割り振られ、 人事異動や新入社員を迎える時期を見越して 総務の担当者様にアポイントを取り、 新しいデスク類を受注するというのが 通常の仕事のパターンでした。 しかし私の配属先の仕事は そうした既存の業務とは異なり、 働く人のモチベーションを高める オフィスづくりの提案をミッションとしていました。 新人の私は、その土台となる オフィスワークの実態を掴むため、 担当を命じられた医薬品業界や マスコミ業界の現場の声を集めて回りました。 それまで日本の多くの企業は、 工場や研究所に比してバックオフィスへの投資には あまり積極的ではありませんでした。 しかしIBMのようなアメリカの一流企業では、 知的ワーカーの業務効率を上げるための投資は 当たり前に行われており、 日本のオフィスも向こうのクリエイティブな 環境づくりに倣うべきだとの考えがあったのです。 例えば椅子の貼り地について、 外回りで疲れて帰ってくる営業の部署はグリーンに、 マイペースに陥りがちな内勤の部署は 士気を高めるために真っ赤にする。 社内の風通しをよくするため 部署を仕切る壁を取り払っても、 椅子の色によって一目で部署が分かります。 仕事は毎日早朝から深夜にまで及びました。 中でも午前中の9時半から11時半までの間と、 午後2時から4時くらいまでの間は、 営業先の窓口となる経営企画や総務の担当者様の 面会を得られやすいゴールデンタイムと言われ、 精力的に外を回って、 お客様の意向をヒヤリングして回りました。 起業という目標を持っていた私は、 そうした与えられた仕事に止まることなく、 自分から仕事を求めること、 様々な業務に主体的に関わることを 常に心掛けていました。 会議にも積極的に加えていただき、 平素から収集しておいた情報をもとに、 既存の常識に囚われない提案を心掛けました。 イトーキに在職していた頃、 先輩から言われていまも 強く印象に残っているアドバイスがあります。 「仕事の世界では20代というのはまだクソガキだ。 30代でガキになり、 40代でようやく大人になる。 だから20代のうちはつべこべ言わずなんでもやれ。 選り好みせずどんな仕事からも吸収しろ」 これは私自身も常々会社の若い社員に説いている訓示であり、 20代の方にぜひともお伝えしたい心構えでもあります。 そして20代のうちは、 そういうひたむきな姿勢を通じて、 自分のレピュテーション、 つまり評判を上げることが大事だと私は考えます。 周りの人々から折に触れ、 あいつイケてるよね、 あいつにやらせてみたらいいんじゃないか、 と名前が挙がるような人になってほしいのです。 20代というのは、 まだ上の世代ほど結果に対する責任を シビアに問われない時期といえるでしょう。 結果を気にせず、 様々なことにチャレンジできる貴重な時期なのです。 その間にぜひとも積極的な姿勢を周囲に示して、 彼が来ると盛り上がるよね、 彼女に頼めばきっとノーとは言わないよね、 といったポジティブな評判をつくっておくことです。 26歳の時、赤字のグループ会社へ出向。 従業員のほとんどが40代以上という中、 僅か2年で同社を黒字化へと導いた。 2013/12/24 日本でただ一つ、 ニット製品の企画からデザイン、製造、販売まで すべてを手掛けている佐藤繊維。 2009年のアメリカ大統領就任式で ミシェル・オバマ大統領夫人が 佐藤繊維のカーディガンを着用するなど、 国内外で大変脚光を浴びています。 創業80年――。 雪の多い山形の田舎で羊を飼いながら 糸づくりをしてきた佐藤繊維が 世界に羽ばたいていった背景には、 4代目社長・佐藤正樹さんの情熱がありました。 「海外から逆輸入されるメイドイン山形」 佐藤正樹(佐藤繊維社長) 当社はもともと山形で 糸作りとニット製造をやっておりまして、 曾祖父が羊を飼ってウールの紡績業を 始めたのが最初です。 祖父の時代に工業化を進め、 父がニット製造を始めました。 私は4代目として後を継いだのですが、 ちょうどその頃から日本の繊維業界は 急激な勢いで衰退し始めたんです。 それまで私は東京のアパレル会社に勤務していましたが、 帰郷していきなり大変な場面に遭遇したわけです。 ニットという分野は繊維製品の中でも加工賃比率が高いので、 不況となると人件費の安い海外に 生産拠点を移すケースが多いんです。 私たちもこのまま日本で製造を続けるか、 海外に生産拠点を持って行くか、 いろいろと悩みましたが、 やはり国内の製造は守らなくてはいけないというので、 そのまま製造を続けることを決めました。 山形に戻って4、5年経った頃でしょうか、 私はある糸に魅せられました。 これはどこで作ったのだろうと問い合わせてみたら、 取り引きのあったイタリアの工場の糸だと。 自分のところにしかないオリジナルの糸を作る上で ヒントを得られるのではないかと思った私は、 イタリアに飛びました。 ちょうど世界の糸の最高峰と呼ばれる ピッティ・フィラーティー展が開かれていたので、 それに合わせて糸を作っていたメーカーを訪問したのですが、 この時、私は大変な衝撃を受けたんですね。 人生の一番の転機になったのはこの時だったかもしれません。 驚いたことに、工場に並んでいたのは 我が社で使われているのと変わらない機械でした。 その代わり、どの機械にも職人たちが加えた 独自の工夫の跡があったんです。 ギアなどの部品を替えたりしながら、 独自の糸を作っているわけです。 工場長が親切な人で 「この糸を手に取ってご覧なさい」 と実際に糸を触らせながら、 この糸がなぜここまで美しくなるのか、 どうやって製造するのかといったことまで、 実に細かく丁寧に説明してくれました。 私の目を見て熱く語る 工場長の姿を見ながら、思いましたね。 「ああ、俺たちはアパレルに言われるがままに 物作りをやっているけれども、 それとは全く別の発想で生きている人だ」と。 そう考えていたら、工場長は 「私たちが世界のファッションのもとを作っているんだ」 と力強く言うわけです。 この言葉も衝撃的でした。 だって日本でいう工場のイメージは 「これを作ってくれ」 「はい分かりました」 と黙って頭を下げる、というものでしょう。 だけど、この工場長にはそういう雰囲気は微塵もない。 自信と誇りに満ち溢れていました。 「物作りの現場から世界を変えていくことは不可能ではない、 自分もこの道を歩いて行こう」 と強く思ったのはこの時が最初でした。 早速社員を集めて 「俺たちも人から言われたものではなく、 自分たちだけの糸を作ろうじゃないか」 と訴えました。 でも反応は冷ややかでしたね。 「社長の息子がイタリアにまで行って 変な風邪に感染されて帰ってきた」と(笑)。 いま思うと、新しいオリジナルの製品を作るのも大変でしたが、 それ以上にスタッフの心を変えていくのが大変でした。 |
2013/12/19 |
坂本健一さん、90歳。 戦後、大阪の焼け跡で始めた古書店を 67年経つ現在も営業し続け、 その精力的な活動はテレビや雑誌でも 紹介され、話題となっています。 本をこよなく愛する坂本さんが 読書や豊富な人生体験から培った 「逞しく生きる哲学」とは――。 「失敗と躓きの数が人生の勲章」 坂本健一(古書店「青空書房」店主) ――いまもお元気で現役を貫かれている秘訣はなんでしょう。 一にも二にも本ですな。 本屋に対する愛情と、本が私に向けてくれた愛情。 その交流だけです。 本ってね、生きて甦って私の心の中に飛び込んできてくれる。 「本は生きている」と書いたら、 「そんなアホな。ただ紙に活字が印刷してあるだけや」 と言う人がいたけど、そんな人は既に死んでるわ。 本ってね、読んであげることによって その作家の情熱や理想が伝わってくるんです。 どうしたら人に伝わるか、 自分のこの思いをどんな方法やったら 相手に伝えることができるか、 一所懸命考えて形になったものが本です。 ――きょうまで歩んでこられて、 人生で大事なことはなんだと思われますか。 自分を偽らんように、できるだけ自分に素直に生きること。 所詮世の中は嘘で固められているけど、 自分に対して嘘をついたらおしまい。 それから、人生辛いことも多いけど、 上司が悪い、世の中が悪いというのは通用せん。 全部自己責任。 どんな環境になっても、 病気で動けなくなっても、 それが自分の運命や。 私みたいに90になってまだ元気で 商いをさしていただけてるのは、 有り難すぎるほどの人生やから、心を尽くして、 人々にいままで受けてきたご恩、 受けてきたいろんな知識とか知恵を伝播していくのが 私の仕事やと思ってます。 これまでたくさん過ちや失敗を重ねてきたから、 それを伝えて若い人たちの参考になったらええやろ。 失敗と躓きの数がその人の勲章。 その数が多いだけ人生は豊かになる。 それが一番の貯金ですよ。 ――勇気づけられる助言です。 失敗して自分は一番しょうもない人間やと 思うのと同じレベルで、 自分ほど強くて、真っすぐで、 負けないやつはおらんという二つの重心を持つこと。 片側だけやと転んでしまう。 そして地べたに放り出されても、 そこで負うた傷を勲章に変える。 人生はオセロゲーム。 真っ白の裏に真っ黒。 真っ黒の裏に真っ白がある。 真っ黒の真後ろに真っ白があることを忘れたらいかんですよ。 |
2013/12/16 |
「日本人の心のスイッチをオンにする」 「教育で若者の意識を変える」 このような一念を抱き、 金なし、コネなしの状態からスタートして、 2007年、29歳の時に、 大阪府吹田市議会議員となった神谷宗幣氏。 現在、「地方から日本をよくしよう」と、 全国の若手議員が超党派で集まった「龍馬プロジェクト」の 会長を務めており、その同志の数は300名を超えるという。 ところが、結成時の賛同者はたったの4人。 神谷氏の歩みは決して順風ではありませんでした。 人生にはなぜ逆境や苦難が降りかかるのでしょうか。 そして、その壁を乗り越える秘訣とは――。 「神様は乗り越えられない試練は与えない」 神谷宗幣(龍馬プロジェクト全国会会長) 日本人の心にスイッチを入れ、 希望溢れる未来をつくる――。 それが私の挑戦であり、政治家を志した原点です。 いま、日本は閉塞感に包まれ、 「夢が見つからない」 「将来が不安」 「自分に自信がない」 と口にする若者が数多くいます。 しかし、彼らは決して無気力なわけではありません。 心のスイッチが入っていないだけだと思います。 それを目覚めさせるには 人との出会いが大きく影響することを、 かつて私は身を以て体験しました。 私の人生に転機が訪れたのは15年前。 大学3年終了後、単身カナダへと渡ったことに起因します。 現地の語学学校に通い、 そこで多くのアジアの若者たちと出会いました。 彼らと接する中で感じたのは、 貧しさゆえに休みの日も必死に勉学に励むひたむきさと 母国への強烈なアイデンティティーでした。 ある時、食事の席でこんな質問が飛んできました。 「神谷は日本をどうしたいと思ってるんだ?」 就職し、少しでもよい生活を することしか頭にない21歳には、 何も答えることができませんでした。 そして私が聞き返すと、堰を切ったように 自国の未来に対する考えを語り始めたのです。 その姿を見た時、私は自分の惨めさを まざまざと痛感させられました。 もっと広い視点を持たなければいけない。 そう思い、8か月にわたって世界を放浪。 アメリカにおける差別や治安の問題、 アフリカ諸国の貧困などを目の当たりにし、 そこで初めて日本に生まれ育ったことへの 感謝の念が湧いてきたのです。 このことを周りの友人に伝えよう。 そう意気込んで帰国したものの、 「日本のあり方が……」と急に言い始めたことに 違和感を抱いたのでしょう。 「神谷は変な宗教に入ったから 付き合わないほうがいい」と、 避けられるようになってしまいました。 いままでどおり自分のことだけ考えていれば 平穏に暮らせるかもしれない。 でも、それでは自分に嘘をつくことになる。 考えた末に出した答えは 「政治家になって教育で若者の意識を変える」 というものでした。 大学卒業後、まずは政治家になるために 必要な知識、人脈、資金を得るために 弁護士に就くことを目標に定めました。 ところが、そんな矢先に母親から 突如電話がかかってきました。 父親が経営しているスーパーが 倒産しそうだと言うのです。 急遽私は大阪から地元の福井に戻り、 店長としてスーパーの立て直しを図ることになりました。 とはいえ、経営のことなど全くの素人、 何ができるわけでもありません。 働いても働いても売り上げは下がり、 借金は膨らむ一方。 両親も精神的にまいってしまい、 ついに廃業を余儀なくされました。 しかし、その過程でいくつもの裏切りがあり、 結局廃業すらできず、 倒産に追い込まれてしまったのです。 ちょうどその頃、婚約者にも逃げられ、 自分の人生は終わった、もう死んでもいい……と 本気で考えるようになっていました。 そんな私を気遣い、 倒産処理でアドバイスを受けていた弁護士の先生が 次のような言葉を投げ掛けてくださったのです。 「神様は乗り越えられない試練は与えない。 目の前の辛いことを乗り越えて、 その先何か大きなことをやりなさい という意味が込められている。 だから、不幸だと思わずに見込まれていると思いなさい」 |
2013/12/16 |
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