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やらされている百発より やる気の一発 中村豪 (愛工大名電、豊田大谷高校野球部硬式野球部元監督) 愛工大名電、豊田大谷高校野球部硬式野球部を監督として 率い、多くのプロ野球選手を世に送り出した中村豪さん。 教え子には工藤公康投手や山崎武司選手などがいますが、 イチロー選手もその中の一人です。 ■高校時代のイチロー 愛知工業大学名電高校、豊田大谷高校で 野球部監督を務めた31年間、 部員たちに口酸っぱく言ってきた言葉がある。 「やらされている百発より、やる気の一発――」 いくら指導者が熱を入れても、選手側が 「やらされている」という意識で ダラダラ練習をしていたのでは何の進歩もない。 やる気の一発は、やらされてすることの百発にも勝る。 そのことを誰に言われずとも実践し、 自らの道を開拓していったのが高校時代のイチローだった。 彼と初めて出会ったのは昭和63年、私が46歳の時である。 「監督さん、すげーのがおるぞ」という ОBからの紹介を受けた私の元へ、 父親とやってきたその若者は、170センチ、 55キロというヒョロヒョロの体格をしていた。 こんな体で厳しい練習についてこられるのか、 と感じたのが第一印象だった。 私の顔を真剣に見つめながら 「目標は甲子園出場ではありません。 僕をプロ野球選手にしてください」 と言う彼に、こちらも「任せておけ」と はったりを噛ました。 700人以上いる教え子のうち、 14人がプロ入りを果たしたが、 自分からそう訴えてきたのは彼一人だけだった。 愛知には三強といわれる野球伝統校があるが、 彼が選んだのは当時、新興チームだった 我々の愛知名電高である。 監督の私が型にはめない指導をすること。 プロ入りした選手の数が全国随一だったこと。 実家とグラウンドの距離が近かったこと。 3年間寮生活をすることで、自立心を養い、 縦社会の厳しさを学ぶこと。 すべてあの父子の、熟考を重ねた末の 選択であった気がする。 ■グラウンドに幽霊が出る? 鳴り物入りで入部したイチローは、 新人離れしたミートの巧さ、スイングの鋭さを見せた。 走らせても速く、投げては130キロ近い球を放る。 1年秋にはレギュラーの座を獲得し、 2年後にはどんな選手になるだろう、と期待を抱かせた。 一方、彼の父親は毎日午後3時半になると 必ずグラウンドへ駆けつけ息子を見守った。 打撃練習ではネット裏を、 投球練習ではブルペンを陣取り、 逐一メモを取っている。 まるで、監督の監督をされているようで あまり気分のいいものではなかった。 非凡な野球センスを持っていたイチローだが、 練習は皆と同じメニューをこなしていた。 別段、他の選手に比べて熱心に打ち込んでいる様子もなく、 これが天性のセンスというものか、と私は考えていた。 そんなある日、グラウンドの片隅に 幽霊が出るとの噂が流れた。 深夜になり私が恐る恐る足を運んでみると、 暗がりの中で黙々と素振りに励むイチローの姿があった。 結局、人にやらされてすることを好まず、 自らが求めて行動する、という意識が 抜群に強かったのだろう。 その姿勢は日常生活の中でも貫かれており、 彼は人の話はよく聴くものの、 それを取り入れるべきか、 弾いてしまうべきかについての判断を 非常に厳しく行っていた。 友達同士で話していても、 自分の関心のないことに話題が及ぶと、 ふいとどこかへ消えてしまう。 そんな、わがままとも、 一本筋が通っているともいえる 「選択の鋭さ」が彼には備わっていたのだ。 「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」といわれるが、 スポーツはただ練習量をこなせば上 達していくものではない。 監督の役割はチームを束ねることだけで、 本人が真に成長するポイントは 教えて教えられるものではないのだ。 自分自身との日々の戦いの中で、 本人が掴んでいくより他、仕様がないのである。 人知れず重ね続けた努力の甲斐あって、 3年生になったイチローは7割という 驚異的な打率を誇る打者に成長し、 「センター前ヒットならいつだって打ちますよ」と豪語していた。 ■金字塔の陰にあるもの プロ入り後の活躍は皆さんもご承知のとおりだが、 入団1年目に彼は首脳陣から バッティングフォームを変えるようにと指示を受けたらしい。 「フォームを変えるか、そのまま二軍へ落ちるか」 と厳しい選択を迫られた彼は、 フォームの修正を拒否し、自ら二軍落ちの道を選ぶ。 そしてその苦境の中からあの振り子打法を完成させるのである。 その後も評論家からは 「あんなフォームで打てる訳がない」 などと酷評されたが、結局彼は自分の信念を押し通し、 球界に数々の金字塔を打ち立てた。 その根っこには、人並み外れた彼の頑固さと、 野球に対する一徹な姿勢があるのだと思う。 高校時代のイチローを思い出す時、 必ず浮かんでくる場面がある。 彼にとって高校生活最後の県大会。 決勝戦で敗れ、惜しくも甲子園行きを逃した ナインは試合後、抱き合いながら号泣していた。 イチローはうな垂れる選手たちを 尻目に応援団席に歩み寄り、 ユニフォームを着れなかった たった一人の同級生に「ごめんな」と声をかけていた。 涙一つ見せず、その表情は実にさばさばとしたもの。 あの時、イチローの目はすでに、 プロという次なる目標を見据えていたのだろう。 イチローは大リーグで 日米通算3,000本安打という偉業を達成したが、 これも彼にとっては単なる通過点にしかすぎない、 世界のスーパースターになったにもかかわらず、 彼は毎年正月になると私の元を訪ねてくる。 その姿勢はどこまでも謙虚で少しも驕るところがない。 私がイチローを育てたと言われることがあるが、 私は彼のことをただ見守ったにすぎない。 私のほうが逆に、彼に教えられたことばかりである。 |
2019.05.28 |
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