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湯ぶねの教訓 二宮尊徳翁 嘉永五年の正月、翁は箱根町湯本の家の温泉に 数日入湯しておられた。 大沢精一が翁のおともをして入浴した際、 翁は湯ぶねのふちに腰かけて、こうさとされた。 ――世の中では、そなたたちのような富者が、 みんな足ることを知らずに、飽くまで利をむさぼり、 不足を唱えている。 それはちょうど、おとながこの湯ぶねの中に突っ立って、 かがみもせずに、湯を肩にかけながら、 湯ぶねが浅すぎるぞ、ひざまでも来ないぞと、 どなるようなものだ。 もしも望みにまかせて湯をふやせば、 小さい子どもなどは湯にはいれなくなるだろう。 だからこれは、湯ぶねが浅いのではなくて、 自分がかがまないことが間違いなのだ。 この間違いがわかってかがみさえすれば、 湯はたちまち肩まで来て、自然と十分になるだろう。 ほかに求める必要がどこにあろうか。 世間の富者が不足を唱えるのは、 これと何ら変りはない。 およそ、分限を守らなければ、 千万石あってもなお不足だ。 ひとたび分に過ぎた過ちを悟って分度を守れば、 余財がおのずからできてきて、十二分に人を救えるはずだ。 この湯ぶねが、おとなはかがんで肩につき、 子どもは立って肩につくのを中庸とするように、 百石の者は五十石にかがんで五十石の余財を譲り、 千石の者は五百石にかがんで五百石の余財を譲る。 これを中庸というべきだ。 もし町村のうちで一人この道をふむ者があれば、 人々はみんな分を越えた過ちを悟るだろう。 人々がみんなこの過ちを悟って、 分度を守ってよく譲れば、その町村は富み栄えて 平和になること疑いない。 古語(大学)に「一家仁なれば一国仁に興る。」 といっているのは、このことだ。 よく心得なければならない。 仁というものは人道の極致であるが、 儒者の説明はやたらにむずかしいばかりで、 役に立たない。 身ぢかなたとえを引けば、 この湯ぶねの湯のようなものだ。 これを手で自分の方へかき寄せれば、 湯はこっちの方へ来るようだけれども、 みんな向うの法へ流れ帰ってしまう。 これを向うの方へ押してみれば、 湯は向うの方へ行くようだけれども、 やはりこっちの方へ流れて帰る。 すこし押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。 これが天理なのだ。 仁といったり義といったりするのは、 向うへ押すときの名前であって、 手前にかき寄せれば不仁になり不義になるのだから、 気をつけねばならない。 古語(論語、顔淵篇)に 「己に克って礼に復れば、天下仁に帰す。 仁をなす己による。人によらんや。」 とあるが、己というのは 手が自分の方へ向くときの名前だ。 礼というのはこの手を相手の方へ 向けるときの名前だ。 手を自分の方へ向けておいては、 仁を説いても義の講釈をしても、 何の役にも立たぬ。 よく心得なければいけない。 いったい、人のからだの組立を見るがよい。 人間の手は、自分の方へ向いて、 自分のために便利にもできているが、 また向うの方へも向いて、 向うへ押せるようにもできている。 これが人道の元なのだ。 鳥獣の手はこれと違って、ただ自分の方へ向いて、 自分に便利なようにしかできていない。 だからして、人と生れたからには、 他人のために押す道がある。 それを、わが身の方に手を向けて、 自分のために取ることばかり一生懸命で、 先の方に手を向けて他人のために押すことを 忘れていたのでは、人であって人ではない。 つまり鳥獣と同じことだ。 なんと恥かしいことではないか。 恥かしいばかりでなく、 天理にたがうものだからついには滅亡する。 だから私は常々、奪うに益なく譲るに益あり、 譲るに益あり奪うに益なし、 これが天理なのだと教えている。 よくよくかみしめて、味わうがよい。 |
2018.08.28 |
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