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      次代に輝く住まいを創る

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「命を懸ける姿勢が人を感化する」
   
【稲盛和夫氏のご指導で他に印象に残っていることはありますか】

数えきれないほどあります。
中でもやはり一番大切にされていたのは、
まずは「責任を持て」ということでした。

この会社ではいままで誰が責任を持って
経営をしてきたんだと。

本部長一人ひとりが自分の本部のことに
100%の責任を持っているのかと。

その責任感がなければ
執行もできないだろう、
と我われに強く訴えかけられました。

会議の場で我われ役員が時間をいただき、
個別の案件について提案させていただいた
時のことは、いまも忘れられません。

そこで名誉会長が見ておられたのは、
説明の内容よりも、それを説明する
我われの「心意気」でした。

これ以上聴く必要がないと判断されれば、
最初の5分で「もう帰りなさい」と。

君の話には魂がこもっていない。

本当に認めてほしいなら、
私と刺し違えるつもりで来なさい。
その気迫のない者は去りなさいと。

ですから5分、10分、なんとか持ち堪えようと
懸命に説明をする。

30分聴いていただいて
ホッと胸をなで下ろしました。

もちろんその上で判断が下るわけですけれども、
そういう「真剣勝負」の場を毎日毎日
過ごさせていただいたことは
本当に大きかったですね。


●「土俵の真ん中で相撲を取る」
 
 常に土俵の中心を土俵際と思い、
 一歩も引かない気持ちで仕事に当たること。

 余裕のあるうちに全力で仕事に当たるべきで、
 余裕ができても慢心せず、緊張感を持って
 全力を尽くすべきだ。
 
2013/03/07

「知られざる偉人・天野清三郎」

天野清三郎は十五歳で松下村塾に入塾した。
四つ年上の先輩に高杉晋作がいた。
清三郎は晋作とよく行動を共にした。

だが、清三郎は劣等感を覚えるようになる。
晋作の機略縦横、あらゆる事態に的確に対処していく姿に、
とても真似ができないと思い始めたのである。

では、自分は何をもって世に立っていけばいいのか。

清三郎の胸に刻まれているものがあった。

「黒船を打ち負かすような
 軍艦を造らなければ日本は守れない」

という松陰の言葉である。

「そうだ、自分は手先が器用だ。
 船造りになって日本を守ろう」


真の決意は行動を生む。
二十四歳で脱藩しイギリスに密航、
グラスゴー造船所で働くのである。

そのうち、船造りの輪郭が呑み込めてくると、
数学や物理学の知識が不可欠であることが分かってくる。
彼は働きながら夜間学校に通い、三年間で卒業する。

当時の彼の語学力を思えば、
その努力の凄まじさは想像を超えるものがある。

しかし、三年の学びではまだおぼつかない。
さらに三年の延長を願い出るが、受け入れられない。
そこで今度はアメリカに渡り、
やはり造船所で働きながら夜間学校で学ぶのだ。

ここも三年で卒業する。
彼が帰国したのは明治七(一八七四)年。
三十一歳だった。

清三郎は長崎造船所の初代所長になり、
日本の造船業の礎となった。
一念、まさに道を拓いた典型の人である。
 
2013/03/06

「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」

                           中村久子 氏

少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。

診断通りだった。
それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。

悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。

少女7歳の時に父が死亡。

そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。

手足のない少女に着物を与え、

「ほどいてみよ」

「鋏の使い方を考えよ」

「針に糸を通してみよ」。

できないとご飯を食べさせてもらえない。

少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。

文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。

ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。

それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は「汚い」と川に放り捨てた。

それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。
この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。

彼女は後年こう述べている。

「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
人間としてどう生きるかを教えてくれた
 最高最大の先生であった」

そしてこう断言する。


「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
 
2013/03/04

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