過去の一語履歴を見ることが出来ます。
知られざる福澤諭吉の逸話 中村勝範(慶應義塾大学名誉教授) 福澤諭吉という人物について、『学問のすゞめ』『文明論之概略』などを著し、 近代日本の思想的礎を築いた人物というだけでは、 親しみを持つのが難しいかもしれません。 一つ目は福澤の父・百助(ひゃくすけ)にまつわる話です。 江戸時代の日本には、 一文銭の穴に紐を通して 96枚を輪っかにしておけば、100文として使用できる習慣がありました。 ある時、百助はその中から数枚を抜き、 うっかり妻の於順(おじゅん)に伝えないまま 外出したことがありました。 帰宅すると一文銭の輪っかがありません。 於順から魚屋に代金として渡したと聞いた百助は、 人足を雇ってまで一日がかりで魚屋を探し出し、 丁重に詫びを述べた上で不足していた代金を払い、 人足にも一日の手当てを支払ったというのです。 その古銭が父の形見として 家に残っていることを母から聞き、 いたく感動した福澤は、この古銭を終生大事にするとともに、 子供たちには 「我が父は正直で一途な人だった。 これを家宝として子々孫々まで伝えていってほしい」 と言い残したといいます。 福澤の几帳面な人柄がそこには見て取れます。 二つ目は咸臨丸と木村摂津守(せっつのかみ)にまつわる逸話です。 下級武士の福澤は木村の配慮なくして咸臨丸に乗れなかった。 その木村は渡航にあたって莫大な借金をしていました。 幕府がアメリカの要人との交際費を出さなかったため、 木村自ら借金して用立てたのです。 交際費はすべて使い果たし、帰国後、 すこぶる生活に困窮するようになりました。 福澤はそういう木村を見かねて 米俵二俵と金10円を毎月欠かすことなく送り続けました。 そしてそれは明治34(1901)年に木村が死んだ後も続き、 子供たちの生活や学費の面倒を見るのです。 「木村摂津守がいたからこそ、 自分は二度もアメリカに渡ることができ、 遣欧使節団の一員にもなれた。 『西洋事情』も書くことができた。 木村摂津守がいなかったら今日の福澤はない」 福澤は、木村から受けた恩を決して忘れず、 その恩にどこまでも報いていこうとする人でした。 師である緒方洪庵に対しても同じでした。 師亡き後、いつまでも家族の生活を援助し続けています。 福澤は科学的、合理的な考えの持ち主で、 それが日本が近代化する上での 牽引力となったことは事実です。 しかし、福澤の生き方は極めて古武士的、儒教的でした。 福澤という人物を知れば知るほど、 そのスケールの大きさに驚きを禁じ得ません。 それは私自身の人生のお手本ともなっています。 |
2015.09.10 |
〒979-0154
福島県いわき市沼部町鹿野43
Mail infous@kushida-web.com
TEL 0246-65-2311
FAX 0246-65-2313
定休日:土曜日・日曜日