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      次代に輝く住まいを創る

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〒971-8134 福島県いわき市鹿島町飯田字八合22

一語履歴WORD vol.138

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5月4日は「みどりの日」です。

「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、
 豊かな心を育む」と祝日法にあります。

つい先日、NHKの人気番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』
にも登場された樹木医・塚本こなみさん。

もともと専業主婦でありながら、女性初の樹木医となり、
さらに、はままつフラワーパークやあしかがフラワーパークなどの
再建に尽力し、大きな花を咲かせています。

   「感動分岐点を超えた時、人も経営も変わる」

  塚本こなみ(樹木医・浜松市花みどり振興財団理事長)

――あしかがフラワーパークの園長として
  どういうことに取り組まれましたか。

塚本 限られた予算内で何ができるかというので
   最初にやったのは販売戦略を立てることでした。

埼玉県春日部市には日本一の藤がある。
東京の亀戸天神には江戸時代からの屈指の藤の名所がある。
群馬県藤岡市には「これぞ藤の名所」といわれる公園がある。

この3つをピンポイントに
「世界一の藤のガーデン。あしかがフラワーパーク」
と大々的にPRしよう、そうしたら気になって
必ず人が集まってくるはず、と訴えました。

「世界一と断言していいのですか」という声もありましたが、
私は日本中の藤の名所を見て回っていましたから

「ここには大藤が4本、白藤トンネルが1つ、
 庭木仕立ての藤が160本もあります。
 世界一と自信を持ってください。
 入園料も値上げしましょう」

と言ったんです。

世界一とうたったチラシを三市に60万部配りましたら、
それまで年間20万人だったお客様が34万人になり、
翌年は47万人、その翌年は55万人というように
右肩上がりに増えていったんです。

そして数年後には100万人を超え、
日本一の入園者を誇るフラワーパークになったんです。

――そうですか。日本一に。

塚本 もちろん、365日感動分岐点を超える園は、
   どんなことをしてもつくれません。

4月、5月の藤のシーズンだけで1年分を稼ぐ。
その一点集中で園を美しくしていく。
大切なところはそこですし、
いま思うと、それが生き残るための道でした。

――感動分岐点を超えるには、
  スタッフの皆さんが心を一つにすることも大事ですね。

塚本 そのとおりです。

だから私は「あなたがやる仕事を見て、お客様は喜ぶの?」と
常に自分に問い掛けるよう呼びかけています。

このはままつフラワーパークでいえば、
私自身は、世界一美しい桜とチューリップの庭園をつくるための旗手です。

そのために、デザインの計画段階から
「これを植えて、その次はこれを」と細かい戦略まですべて社員に伝えて、
その実施状況を細かくチェックしています。

厳しいことも言いますから、
鬼の理事長と恐れられているかもしれませんが(笑)、
収益はよくなっていますし、目標も明確です。
社員の表情は明らかに輝き出していますね。

私は現在、はままつフラワーパーク理事長、あしかがフラワーパーク園長のほか、
弱ったり花の咲かない大藤の治療など全国の12の仕事を請け負っています。

他の樹木医が匙を投げたような困難な仕事もありますが、
それでも結果は必ず出します。

仕事とは結果を出すこと。
私のポリシーは追い求めることなんです。
その信念はずっと貫いていきます。
 
2015/05/04

5月3日は憲法記念日です。

「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」
と祝日法にあります。

近年は憲法改正の是非がよく議論されていますが、
いずれの立場にせよ、日本の最高法規である憲法が
どのように制定されたのか、当時のリーダーはどんな思いだったのか、

 「日本国憲法制定の時、吉田茂首相が命を懸けて守ったもの」

         北康利(作家)

 吉田茂の最大の功績は、なんといっても
早期講和を実現して日本の独立を取り戻したことであろう。

そして経済復興の道筋をつけ、
次代のリーダーを育てたことである。

サンフランシスコ講和条約に際しては、
吉田がアメリカとの部分講和を進めようとするのに対し、
ソ連や中国も加わった全面講和を主張する者たちから強い反対にあった。

しかし米ソ冷戦が始まったばかりの当時、
ソ連と中国にアメリカと同じ方向を向かせて
講和に参加させることは至難の業であった。

先ほども述べたように吉田は、講和を早期締結し、
国民に独立心を植え付けなければと考えていた。

実際、マッカーサーがアメリカに帰る時、
人々は自分たちを占領した国の総司令官に対して沿道から旗を振り、
「ありがごうございました」と口々に叫んで見送った。

吉田はそうした日本人の国民性を冷静に見据え、
占領を長引かせてはいけないと強く思っていたのである。

ゆえに時間のかかる全面講和ではなく、
部分講和を通じての早期独立の道を目指したわけである。

軍備にしても同様である。

再軍備を遅らせる結果を招いた軽武装、経済優先の復興路線、
いわゆる吉田ドクトリンの功罪がしばしば論議されるが、
軍隊のない国家などあり得ないことを吉田は百も承知であった。

しかし100万人単位で餓死者が出るほどの窮状の中で、
まずは経済を優先すべきだとの彼の決断があったからこそ、
日本は早期復興を果たせたのである。

それができたのは、アメリカからの執拗な軍備増強の要求を、
新憲法の9条を盾に懸命にかわしたからである。

新憲法はきわめて屈辱的な押しつけ憲法であった。
しかし吉田には転んでもただでは起きない粘り強さがあった。

制定に当たって日本側の要求がことごとく却下される中、
ともかくも国の拠り所である天皇制を死守した。

さらに、米ソ冷戦の始まりでアメリカが手のひらを返したように
日本に軍備増強を迫るのに対して、
不本意な憲法を逆手にとって拒否したのである。

リアリストの彼は、困難な目標に対しては
一直線に向かっていくのではなく、
いったん横に進んでも最終的に必ず成し遂げようとした。

その間も目標を見失うことなく、
軸をブラさない。

ビジョンを明確に示していたため、
国民も彼が何をなそうとしているのかがよく理解できていた。

このように懸命に国を守ってきた吉田の思いがあった。
 
2015/05/04
木猫

 勝軒という剣客の家に大きな鼠が出たことから話は始まる。
鼠捕りの上手い猫で、黒猫、虎猫、灰色猫をかりてきてくるが、
鼠を捕らえることが出来ず、勝軒自らが木刀でこらしめようとするが、上手くいかない。
そこで、召使に頼んで無類の強さを誇る古猫を借りてきた。
その猫は大してかしこそうでもなく、はきはきしたところもないが、鼠の部屋に入れてみると、
鼠はじっとして動けなくなり、あっさり捕まえてしまうというお話だ。

 その後で、この古猫に他の猫や勝軒が教えを乞う。
 はじめに黒猫「今まで鼠を取ることを仕事にする家に生まれて、
どんな早業も軽業もやってきた。失敗したことは一度もないのに今回は残念だ。」
 それに対し古猫「あなたの学んだのは技術だけにすぎない。
昔の人が技術を教えたのはその筋道やその中にある深い真理を理解させるためであって、
技術だけを磨くことには何の意味もないことだ。」

 次に虎猫「今まで気勢というものを大切に今までやってきた。
そして相手の鼠に対して睨みつけ、気合で圧倒し、たけだけしく張りあげてどんな動きにも対応してきた。
しかし今回の鼠は動きが早く、相手を圧倒することが出来なかった。」
 それに対し古猫「あなたの修練してきたのは、相手より常に上をいくという自負心の中で成り立ち、
それを越える強さのものには対応できるのか。

 今度は灰色猫「気勢盛んなものは形にあらわれる。
そこで私は気勢をはらず、物を争わず、和して矛盾せず、
ちょうど投げた石を幕で受け止めるようなものと考えてきた。
しかし、今回は勢にも負けず、和にも同ぜず、
振る舞いは神のようであり、とらえることが出来なかった。」
 それに対し「君の和は自然のものではなくまだ作為した和である。
敵の鋭意をはずそうとしても、君の心にそういう思いがあると、すぐに察知される。
そこで、無念無為にしておると、名人の境地であるから敵対するものがなくなる。」

 最後に勝軒「今晩の皆さん方の意見を聞いて剣術の極意を知った。
そこで何をもって敵なく我なしというのか。」
 それに対し「剣術というものは人に勝つためではなく、大事に臨んで生死の道を明らかにする術だ。
だからこそ、精神の修養と技術の練磨を怠ってはならない。
そこでまず、生死の理を良く知り、その精神をゆがめず、
他人を疑ったりせず、ゆったりと落ち着いていれば、どんな変化にも応じられるだろう。
少しでも心に為さんとする心があれば、形にあらわれ争いがおこる。
心には元来形はなく、物を蓄えるということもできない。自分が無物だというものは、蓄えず、偏らず、敵もなければ我もない、つまり無思無為という状態であり、無意識で森羅万象に充満していることを言う。
これを考えると、我があるから敵があり、我がなければ敵がないといえる。陰陽水火のように相対するものであるゆえに、心に形がなければ対立するものも無くなるのだ。
心と形を共に忘れ、思いのままに動けるようになれば、
自分の心から苦楽、損得という境界をつくらずに、良いの悪いの、好む憎むのない世界になるであろう。
天地は広大であっても、この境地に達すれば、結局は心の外に求むべきものはないことがわかってくる。
だからこそ伝えようと思うが、どんな状態でも心は自分のものであり、
いかに大敵でも志だけはどうすることもできないものだ。
孔子は『匹夫も其の志を奪うべからず』と言う。
まさにその通りだと思う。
ただしひとつ注意するとすれば、迷う時は却ってその心が敵の助けになるであろう。
あとは自分で反省し、求めなさい。」

 安岡正篤はこの『木猫』の最後の解説を次のように締めくくっている。
師はそのことを伝え、その道理をさとすだけですから、その真実を得るのは自分である。
これを自得と言い、以心伝心といい、教外別伝と言うのである。
自得とは自分が自分をつかむことであり、教外別伝とは、
言葉や形では本当の真理深層を伝えられないということである。
 
2015/05/03

    「人間は他との比較をやめて、
    ひたすら、自己の職務に専念すれば、
    そこに一天地が開けるものである」
         
    ――森信三(国民教育の師父・哲学者)

森信三先生は明治29年、愛知県知多郡に
端山家3人兄弟の末っ子として生まれた。

祖父は第1回国会議員であり、
愛知県会議長を4期16年も務めた地方の名士だった。

だが、先生が生まれた翌年に母が不縁となり去る。

先生は小作農の森家にもらわれた。
養父母は共に律儀で実直な人。
これが救いで、先生終生の感謝となる。

小学校を首席で卒業するも養家の事情で
中学受験を断念、母校の給仕となる。

17歳で愛知第一師範入学。
21歳で卒業、23歳で広島高等師範へ。
ここを27歳で卒業し、28歳で京都大学哲学科入学。

卒業後さらに大学院で5年間学び首席で卒業。
この年齢の嵩みは先生の苦学の軌跡を示すものだが、
結局、京都で職に就けず、母校の広島高師にも迎えられなかった。

先生は住み慣れた京都を離れ、大阪郊外に移り住んだ。
その時、「天地の間にただ一人立つ」の感慨にむせんだという。

端山家から森家の養子となり中学進学を断念したのが
第一の逆境なら、これは第二の逆境だった。

だが、この逆境こそ森信三先生が
その後の人生に一天地を築いていく礎になったのだと思われる。

その森信三先生にこういう言葉がある。

「人間は他との比較をやめて、ひたすら、
 自己の職務に専念すれば、そこに一天地が開けるものである。

「すべて人間というものは、たとえ頭脳は大した人ではなくても、
 その人が真に自覚さえすれば、一個の天地を開くことができるものです。

 だから人間は、世間的な約束事などには囚われないで、
 自分のしたいことは徹底的にやり抜くんです。
 そうすれば、そこに一つの火が点されます。

 いかに長いトンネルでも掘る手を止めねば、
 いつかは必ず貫通するようなものです」

人はどんな境遇においても一天地を開くことができる。
森先生の生き方が私たちに教えてくれているのはそのことである。
 
2015/04/30

バナースペース

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