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      次代に輝く住まいを創る

TEL. 0120-815-711

〒971-8134 福島県いわき市鹿島町飯田字八合22

一語履歴WORD vol.135

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組織はそこに...
東池袋・大勝軒、昭和36年の創業以来、
多くのお客様に愛され、
日本で初めて「つけ麺」を販売したことでも知られる当店は、
平成19年3月20日、最後の営業日を迎えました。

閉店を知るや、11時から15時までの営業時間めがけて
全国からお客様が殺到し、当日までの数週間は
泊まり込みで並ばれる方もいたほどです。
 
閉店当日、ヘリコプター3機を含むマスコミが取材に殺到し、
店先には500人近くのお客様が長蛇の列をつくっています。
その光景を見た私は、何とも言い表せない思いが込み上げてきました。
 
妻と二人、裸一貫で始めた小さなラーメン屋が、
いまやこんなに多くのお客様に愛される店になったのだ。
 
しかし、それは決して平坦な道のりではありませんでした。

55年に及ぶラーメン人生を振り返ると、
2つの大きな試練があったのです。
 
幼い頃から慕っていた従兄弟に誘われ、
ラーメン職人への道を歩み始めたのは17歳の時です。

下積み時代はとにかくがむしゃらに働きました。

休みは1か月に1回、睡眠は平均3時間という生活でしたが、
それを辛いと思ったことはありません。

自分にはこの仕事しかないと覚悟を決め、
不平不満を言わず、人一倍努力しようと心に秘めて
修業に励んできました。
 
そして修業から10年目の昭和36年、
従兄弟の許しを得て27歳で独立。

これが東池袋大勝軒の始まりです。

店は日を追うごとに繁盛していきましたが、
私には一つの不安がありました。

独立前から感じていた両足の痛みが悪化し、
見ると長靴も履けないほどパンパンに腫れ上がっていたのです。

長時間の立ち仕事が原因の静脈瘤でした。
 
すぐに手術をし、リハビリを開始しましたが、
その間3か月の休業を余儀なくされました。

これが一つ目の試練です。
 
病弱な妻は
「これからは私が先頭に立ってやるからね」
 
と、麺上げなどの力仕事を引き受けてくれました。

その気丈な姿を見るたびに胸が引き裂かれる思いでしたが、
妻とお客様の笑顔を支えに、痛みに耐えて厨房に立ち続けました。
 
しかし、そんな綱渡りのような生活を奪う、
二つ目の試練が訪れました。

妻が末期の胃がんに侵されていたのです。
 
病名が分かった時点ですでに手遅れでした。

「老後は二人で楽しくやろう」

を合言葉にここまでやってきたのに、
一体どうして……。

告知から1か月後、妻を失った私は
生きる気力を完全に失いました。
 
店は、妻の病気が発覚してからずっと休業していました。

7か月がたち、何をしても妻との思い出が甦り、
店をたたもうと決意した日のことです。

身辺整理のために店に出向くと、

「しばらく休みます」

とカレンダーの裏に書いた貼り紙に、
お客様からの激励のメッセージがびっしりと書き込まれていたのです。
数えると39個もありました。

「早く元気になっておいしいラーメンを食べさせてください」
「楽しみに待っています」
「再開はいつですか」

思い返せば、ラーメンブームに乗って他店が派手な宣伝を始めた時も、
私たちはコツコツと味の研究を重ね、口コミで評判を呼んでいきました。

気づかぬうちに、こんなにも多くの方々が
私のラーメンを待っていてくれたんだ。
ここでもう一度頑張ってみよう。

 
その後、私はこれまで以上にラーメン一本で生きていくことを
決意しました。

炒飯などご飯もののメニューをやめ、体調を考慮し営業時間を短縮。
店に寝泊まりしてラーメン作りに全精力を注ぎました。

短時間で集中的に営業するため、妻の死を機に
初めて弟子を受け入れたのもこの頃です。

それはいわば53歳からの再出発でした。
 
ラーメンに限らず、一流の職人は皆
「ものづくりは心が入っていないとだめだ」

と口を揃えます。

同じように、私がラーメン作りで最も大切だと思っているのは、
素材やお客様への感謝の心です。

これまで弟子たちには、この「心」の大切さについて
繰り返し言い聞かせてきました。
 
その原点となっているのは、幼い頃に国民学校で受けた
修身」教育です。

そこでは周囲の環境に感謝し、礼儀を重んじること。
そして年長者を敬い、人の見ていない所でも手を抜かず、
どんな時も努力を積み重ねることの大切さを学びました。

ラーメン作りにおいて、今日までその姿勢を
貫いてきたことが、大勝軒がお客様に飽きられず、
行列の絶えない店であり続けられた理由かもしれません。
 
一度は閉めた当店も、再開を望む多くのご要望が寄せられ、
昨年リニューアルオープンを迎えることができました。

店は弟子に任せていますが、74歳のいまでも
毎朝スープの味を確認し、店先に座ってお客様をお出迎えしています。

 
現在、全国に130人を超える弟子たちが活躍していますが、
彼らが独立する時、私はよく「人生の試練に打ち勝て」

と色紙に書いて贈ります。

開業後、遅かれ早かれぶつかる様々な試練を乗り越えるためには、
困難に打ち勝つ心が必要です。

我が子のような弟子たちには、
仕事を通じてどんな試練にも負けない強い心を養ってほしい。
そう願ってやみません。
 
 山岸一雄
(東池袋大勝軒・初代店主
 
2015/04/18
情報通信業界のリーディングカンパニーとして
躍進し続けるフォーバル。

25歳で同社を創業し、かつて国内通信を
独占していた電電公社に闘いを挑み、
通信の自由化に尽力したのが大久保秀夫氏です。

    「逃げない、誤魔化さない、
  どんなに苦しくても真正面から立ち向かう」
         
     大久保秀夫(フォーバル会長)

 25歳の時、徒手空拳で創業した会社は35年経ったいま、
売上高400億円、従業員1700人を超える上場企業になった。

そんなことから時折、
「大久保さんが成功した秘訣は何ですか」と尋ねられるのだが、
はっきり申し上げてこういう質問にはうんざりする。

「まだまだやりたいことが山ほどあるし、
 成功したとは全く思っていない」
というのが正直な答えだ。

自分は成功した、もう満足だと思ったその瞬間から、
人間は堕落の一途を辿る。

やはり生きている限りゴールはないし、
死ぬまで成長し続けなければならない。

現在私は60歳だが、いまも毎日全力の日々を過ごしている。
その姿勢を築き上げたのは怒濤の如く生きた
20代の10年間に他ならない。

創業僅か1年で業界首位の地位を確立したその翌年、
大阪に支社を設立すると、私はそこで6名の社員を雇い、
毎日飛び込み営業をしていた。

そんなある日の晩、「いますぐ東京に戻ってきてください」と電話が入った。
深夜12時過ぎに会社に着くと、全社員が集まっている。

会社に対して何か不満があったのだろう。
いろいろと要求を述べてきたので、私が「呑めない」と突き返すと、
20名の男性社員がバッジを外し、
「じゃあ辞めさせていただきます」と言って出ていった。

男性営業マンは4名だけが残り、12名の女性事務員は震えている。

私は動じた素振りを見せず、「腹減ったな。みんな飯行こう」と言って、
焼肉屋に行き、カラオケを楽しんだ。

朝5時過ぎに帰宅し、妻と子供の寝顔を見た瞬間、
初めて我に返って足がガクガク震えた。

「俺の会社って、潰れちゃうのかな……」

考え抜いた末に出した答えは、
大阪の支社を畳んで、事務員を2名にし、
残った営業マン4名とやり直そうというものだった。

いざ会社へ行こうと外に出ると、
朝の太陽が何とも重たく憂鬱に感じられた。

「大阪の6人と東京の事務員10人は何の責任もないよな。
 自分が生き残るために人のクビを斬って、
 そんなことでいいのだろうか……」

その時、ふと思った。

「いや、違う。坂本龍馬は前のめりになって倒れると言ってたな。
 だから、俺も倒れる時は前のめりだ。辞めた分は補充しよう。
 20人辞めたら20人新しく入れればいいんだ。
 彼らを教育する時間さえ耐えられれば、また元に戻れる」

そう考え方が切り替わった瞬間、太陽が綺麗に見えた。

銀行は取り合ってくれないので、父親に借金を申し込み、
面接に来た人を全員採用した。

東京では先輩営業マン1人につき5人の新人を連れて指導し、
私は大阪で6人とともに外回り。

夜中に東京へ戻ってミーティングし、電話帳を枕に寝る。
朝5時過ぎに跳ね起きて、また大阪へ行く。

そういう生活を月曜から金曜にわたって1年間続けた。

1985年に電電公社と民間の販売台数が半々となり、
電電公社の独占状態は瓦解。

そして、1988年には年商100億円を突破し、
当時の日本最短記録でジャスダック上場を果たしたのである。

倒産の危機に直面した時、もし楽な道を選んでいたら、
私の人生はいまだに卑屈なものになっていただろう。

だから、20代はとにかく逃げず、誤魔化さず、
どんな苦しいことでも真正面から立ち向かっていってほしい。

そういう経験は、必ず後々自分の人生に
プラスの力をもたらしてくれる。
 
2015/04/13

航空宇宙から医療・ヘルスケア、次世代電気自動車など
数々の分野で戦略的デザインコンサルティングを展開している
デザインディレクターの國本桂史さん。

       「想像する創造」
         
     國本桂史(デザインディレクター)

「國本さんって一体何の仕事を
 しているんですか!?」

このような質問をよく受けるほど、
デザインディレクターとして手掛けてきた
商品やプロジェクトは多岐にわたります。

一例を挙げれば、愛知県大須地区の都市デザインから
カーデザイン、人工衛星デザイン、ロボット、
自動車玩具「チョロQ」、日本酒「萬歳楽 白山氷室」、
肌着ブランド「クオーレ・アモーレ」等々……、
グッドデザイン賞をはじめ世界各国で
様々な賞を数多く受賞してきました。

加えて、現在私の仕事の主流になっているのが、
医療・ヘルスケアデザインという新しい分野です。

いまから数年前、世界における医療・ヘルスケア産業の
市場規模は自動車産業のそれを超えました。
2020年には500兆円に達するといいます。

そんな中、昨年8月に名古屋市立大学病院内に
「医療デザイン研究センター」を設立。

私はセンター長として、
「いままで見たこともないものを創る」という理念のもと、
医療機器から手術方法に至るまで、医療全般における
革新的なデザインの研究開発に日々取り組んでいます。

デザインというと、見た目がかっこいいものや
人目を惹く斬新奇抜なものを創ることだと
想像される方が多いでしょう。

確かにそれらも必要ですが、
私の考えるデザインとは単にものを創るだけに留まりません。

「人間が心地よく暮らして幸福になること」が
何よりも大事なのであって、
その状態をいかにして創り出すかが私の仕事であり、
これがまさしくデザインの究極の目標なのです。

その最近の代表作ともいえるのが
「新型喉頭鏡」でしょう。

喉頭鏡とは全身麻酔時や救急救命の際、
患者の気道を確保するために用いる器具のこと。

従来は槌のような形をした金属製のものしかなく、
重い上に柄が直線で持ちにくい。

そのため操作を誤ると患者の前歯が
折れてしまうこともありました。

何と驚くことに、70年以上も形状や操作性が
ほとんど変わっていなかったのです。
何も考えず前例の形ありきで作ってきたと
言われても仕方ありません。

そこで私たちは、患者を傷つけず、握力の弱い女性医師でも
簡単に扱えるよう、チタンを用いて軽量化し、
グリップやブレードの形状を全く新しくデザイン開発しました。

この「新型喉頭鏡」は試作臨床研究で圧倒的な評価を受け、
政府から予算も得て現在商品化し、
世界市場に対して販売を始める段階です。

デザインとは未来を創ることであり、
どうすれば人間が生きていく上で最も快適になるか、
そのゴールを提示することだと考えています。
 
2015/04/12

ある書道の時間のことです。

教壇から見ていると、筆の持ち方がおかしい女子生徒がいました。
傍に寄って「その持ち方は違うよ」と言おうとした私は
咄嗟にその言葉を呑み込みました。

彼女の右手は義手だったのです。

「大変だろうけど頑張ってね」と自然に言葉を変えた私に
「はい、ありがとうございます」
と明るく爽やかな答えを返してくれました。

彼女は湯島今日子(仮名)といいます。

ハンディがあることを感じさせないくらい、
勉強もスポーツも掃除も見事にこなす子でした。

もちろん、書道の腕前もなかなかのものでした。

三年生の時の運動会で、彼女は皆と一緒にダンスに出場していました。

一メートルほどの青い布を左右の手に巧みに持ち替えながら、
音楽に合わせて踊る姿に感動を抑えられなかった私は、
彼女に手紙を書きました。

四日後、彼女から便箋17枚にも及ぶ手紙が届きました。

ダンスの布については義手の親指と人差し指の間に
両面テープを張って持ち替えていたとのことでした。

「先生のところまでは届かなかったかもしれませんが、
テープから布が離れる時、ジュッという音がしていました。
その音は私にしか聞こえない寂しい音です」
と書かれていました。 

この言葉に私は心の奥に秘めた
人に言えない彼女の苦しみを見た思いがしました。

17枚の便箋に書かれてあったのはそれだけではありません。
そこには生まれてから今日まで彼女が生きてきた道が綿々と綴られていました。

彼女が右手を失ったのは三歳の時でした。

家族が目を離した隙に囲炉裏に落ちて手が焼けてしまったのです。
彼女は、小学校入学までの三年間、
事故や病気で体が不自由になった子供たちの施設に預けられることになりました。

「友達と仲良くするんだよ」

と言って去った両親の後ろ姿をニコニコと笑顔で見送った後、
施設の中で三日間泣き通したといいます。

しかし、それ以降は一度も泣くことなく、
仲間とともに三年間を過ごすのです。

そして、施設を出る時、園長先生が彼女を膝に乗せてこのような話をされました。

「今日子ちゃんがここに来てからもう三年になるね。
 帰って少しすると今度は小学校に入学する。

 でも今日子ちゃんは三年もここに来ていたから
 知らないお友達ばかりだと思うの。

 そうするとね同じ年の子供たちが周りに集まってきて、
 今日子ちゃんの手は一つしかないの?
 なにその手?
 と不思議がるかもしれない。

 だけどその時に怒ったり泣いたり隠れたりしては駄目。
 その時は・・・・・」

彼女が「はい」と元気な明るい返事をすると、
園長先生は彼女をぎゅっと抱きしめて声をころして泣きました。

彼女も園長先生の大きな懐に飛び込んで
三年ぶりに声を限りに泣いたそうです。
 
故郷に帰って小学校に入った彼女を待っていたのは案の定
「その手、気持ち悪い」という子供たちの反応でした。

しかし、彼女は園長先生との約束どおり、・・・・」

(・・・・は、お考え下さい。)
聞けば、そうだと思います。
 
2015/04/09

青年版国民栄誉賞「人間力大賞」の
準グランプリを受賞するなど、
起業家、人材育成アーティストとして
幅広く活躍する加藤秀視さん。

しかし、その20代までの歩みは壮絶でした。
父親から虐待を受け、中学で暴走族に入り、
ドラッグ、恐喝、傷害……。

大切な仲間の死をきっかけに裏社会から抜け出た後、
自ら立ち上げた建設会社で不良少年など1000人以上を更生させ、
現在ではその経験や数多くの学びをもとに
経営者やアスリートの専属コーチも行っています。

     「心の純粋性が高まるほど
    人生に必要なものが見えてくる」

    加藤秀視(創栄Group代表取締役)

――加藤さんはコンサルティング会社や建設会社など
  いくつかの会社を経営する一方で、
  人材育成の面でも幅広くご活躍ですね。

加藤 最近、どちらかというと人を育てることが
   自分の特質的な能力かな、と思うようになりました。

経営者やアスリートの専属コーチも行っていて、
僕が関わるスポーツのジュニアチームがオーストラリアの試合で
世界チャンピオンになったばかりなんです。
契約の都合で詳細は言えないのですが。

――どのような指導をされているのですか。

加藤 メンタル面の指導というと、
   よくプラス思考や心の持ち方を説く方が多いんですが、
   僕はもっと深いところにある人間の純粋な意識に
   アプローチする方法をとっています。

僕は「純粋性」という言い方をしているのですが、
分かりやすい表現をすれば、自分自身と向き合って
自分のすべてを受け入れることです。

長所だけでなく短所も全部ひっくるめて
「自分は唯一無二の価値ある存在だ」と
心から思えることなんですね。

自分の価値に心から気づいてこそ、
「自分にはどうせできない」とか「価値がない」といった
様々な幻想、緊張、プレッシャー、恐怖心といった想念から解放され、
本当の使命や役割に気づくようになる。

僕の考え方のベースには常にそのことがあります。

つまり、様々なノイズに巻き込まれて分からなくなっている
もともとの能力に気づかせてあげるのが僕の役割だと思っているんです。

――自分自身の純粋性に気づくところからすべてが始まる。

加藤 はい。僕はこの独自の育成手法によって
   少年院を出入りする少年少女や問題を抱える親子など
   1000名以上を立ち直らせてきた経験を持っています。

いまのクライアントは上場企業の社長だったり、
一流アスリート、医師、弁護士、政治家の先生だったりするわけですが、
子供を立ち直らせるのも、企業の人材を育成するのも、
僕に言わせたら原点は一緒なんですね。

かくいう僕自身、かつては自分も他人も
全く信用できない人間でした。

子供の頃から手がつけられない悪ガキで、
高校を中退した後は裏社会をひたすらさまよい歩いていたんです。

いま思うと、20代までは
恐怖感や自己嫌悪の塊だったんですね。

そこから這い上がる過程で多くの教えに触れ、
聖者に学んで自分を変えようとしてきました。

僕の育成手法はそういう中でいつのまにか
形づくられていったものなんです。
 
2015/04/09

バナースペース

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