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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.141

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一語履歴 vol.150
師弟関係 150a話を聞いて~犠牲なき 150b感謝こそ 150cすべての逆境
一語履歴 vol.149
この苦しみ... 149a教えて... 149b困難を 149c運がいい...
一語履歴 vol.148
感動する心 148a人生二度 148b一流シェフ 148c日本人と 148d心に
一語履歴 vol.147
危険に 147a苦しみの先 147b仏像を 147c辛い時こそ
一語履歴 vol.146
子供の能力をフルに開花させる 146aママが死にたいなら
一語履歴 vol.145
途中で 145aV字回復 145b呼び寄せる 145c見てくれている人
一語履歴 vol.144
自己を習う 144a円満に 144b全力投球 144c苦難を受け入れた時
一語履歴 vol.143
誠は 143a重光葵 143bお天道様に 143c歯と目と声
一語履歴 vol.142
人生逃げ場なし 142aピンチを 142b苦労を苦労と 142c無限の可能性
一語履歴 vol.141
100-1=0 141a締め切りがある 141b芸を磨き 141c先生
先生 大変申し訳ないのですが
               木下晴弘(元カリスマ塾講師)

私が学習塾講師になって間もない頃、
S君という中学三年生の生徒が入塾してきました。

無口で少し変わった子でした。
授業の時にノートを出さない。
数学の問題はテキストの余白で計算する。
だから計算ミスばかりしているのです。

たまりかねた私は、ある時、彼を呼び出して言いました。
「ノートはどうした」
しかし、S君は黙ったままうつむいています。

次の日は必ずノートを持ってくるように約束させましたが、
それでも彼はノートを持ってきませんでした。

私はカチンときて思わず怒鳴りつけました。
「反抗する気やな。よし分かった。先生がノートをやるわ」
私は五百枚ほどのコピー用紙の束を机にボンと投げ出しました。

するとS君は「ありがとうございます」とお礼を言うのです。

夏になると、周囲の生徒からS君に対する苦情が
寄せられるようになりました。

彼がいつも着ているヨレヨレの
Tシャツとジーパンが臭うというのです。

この時も私は彼を呼んで毎日着替えるよう言いましたが、
それからも服装は相変わらずでした。

私は保護者面談の時、
S君の母親にこのことを話しておかなくてはと思いました。
生活態度を改めるよう注意を促してほしいと訴え掛ける私に、
母親は呟くように話を始めました。

「あの子は小学校の頃から、
 この塾に通ってK学院に進学するのがずっと夢だったんです。
 でも先生、大変申し訳ないのですが、
 うちにはお金がありません……」

S君が早くに父親を亡くし、
母親が女手一つで彼を育て上げてきたことを知ったのはこの時でした。

塾に通いたいというS君をなだめ続け、
生活を切り詰めながら、なんとか中学三年の中途で
入塾させることができたというのです。

私はしばらく頭を上げることができませんでした。
S君に申し訳なかったという悔恨の念がこみ上げてきました。

そして超難関のK学院合格に向けて一緒に頑張ることを自分に誓ったのです。

K学院を目指して早くから通塾していた生徒たちの中で
S君の成績はビリに近い状態でしたが、
この塾で勉強するのが夢だったというだけあって
勉強ぶりには目を見張るものがありました。

一冊しかない参考書がボロボロになるまで勉強し、
私もまた、他の生徒に気を使いながら、
こっそり彼を呼んで夜遅くまで個別指導にあたりました。

すると約二か月で700人中ベストテンに入るまでになったのです。
まさに信じがたい伸びでした。

S君はそれからも猛勉強を続け、
最高水準の問題をこなせるようになりました。

K学院の入試も終わり、合格発表の日を迎えました。

私は居ても立ってもいられず発表時刻より早くK学院に行き、
合格者名が貼り出されるのを待ちました。

真っ先にS君の名前を見つけた時の喜び。
それはとても言葉で言い尽くせるものではありません。

「S君に早く祝福の言葉を掛けてあげたい」
そう思った私は彼が来るのを待ちました。

しかし一時間、二時間たち、夕方になっても姿を見せません。
母親と一緒にやって来たのは夜七時を過ぎてからでした。
母親の仕事が終わるのをずっと待っていたようでした。

気がつくとS君と母親は掲示板の前で泣いていました。

「よかったな。これでおまえはK学院の生徒じゃないか」
我がことのように喜んで声を掛けた私に彼は明るく言いました。
「先生。僕はK学院には行きません。公立のT高校で頑張ります」

私は一瞬「えっ」と思いました。
T高校も高レベルとはいえ、
K学院を辞退することなど過去にないことだったからです。

しかし、その疑問はすぐに氷解しました。
S君は最初から経済的にK学院に行けないと分かっていました。
それでも猛勉強をして、見事合格してみせたのです。

なんという健気な志だろう。
私はそれ以上何も言わず、
S君の成長を祈っていくことにしました。

この日以来、S君と会うことはありませんでしたが、
三年後、嬉しい出来事がありました。

東大・京大の合格者名が週刊誌に掲載され、
その中にS君の名があったのです。

「S君、やったなぁ」
私は思わず心の中で叫んでいました。
 
2015.05.23
芸を磨き 極めるには何が大事か
            梅若玄祥(観世流シテ方梅若家当主・人間国宝)

昨年、人間国宝に認定された 能楽師・梅若玄祥。
室町以来700年の伝統を守りつつ、
廃絶された能の復曲、新作能の上演、海外公演などにも
意欲を燃やす、能楽界の第一人者です。
    
 ――若くして一門を率いる立場となって、
  様々なご苦労があったのではないですか。

梅若 ええ、まず弟子たちの稽古などは、
   当主として全部見ていないといけないわけで、
   それは大変なことでした。

ただ、それ以上に堪えたのは、自分より経験も年齢も
上の方々が大勢集まる席に参加した際に、高座のほうに座りますと、
若造のくせにという厳しい視線を感じたことでしたね。

その時に、もうこれはとにかく芸というものを磨いて、
うまくならなかったらダメだなと思いました。

皆さんを納得させるには、言葉や理屈ではなくて、
舞台以外にはないんだと。

だから、その後は稽古でも舞台でも必死。
本当に一心不乱、無我夢中でした。

――そのような歩みの中で、転機となったことはございますか。

梅若 確か40代半ばから50歳ぐらいの時だったと思いますが、
   大きな心境の変化がありました。

それまでは、周囲に実力を示さなくてはいけない、
能を極めないといけないという思いばかりが強くて、
余分なものまで背負い込んでいたようなところがあったんですね。

いま思い返してみても、思いばかりが先立って、
芸に実が伴っていなかった。

それが50歳を境に、身の丈に合ったことを
積み重ねて初めてそれがものになる。
一つひとつを積み重ねていけばいんだという思いで、
今度は地に足を着けた努力をするようになりました。

それからは、自信というのとは少し違うけれども、
これが最高のものだという思いで常に舞台に立ってきました。
そういう思いで舞台に立つことが、私のモットーになったのです。

――あぁ、常にこれが最高のものだという思いで舞台に立つと。

梅若 ええ。自分の演技に対して、
   絶対に懐疑的な思いを抱いて舞台に上がらないようにと。
   そうしないとお客様に失礼なんですよ。

それで私が舞台の途中で転ぼうが仕方ない。
それがその時に自分がお客様に見せられる最高のものなわけですから。

その思いをお客様に観ていただきたいと願って
毎回幕を上げ、演じるんです。 
 
先ほども申し上げた、気負わず身の丈に合ったことを積み上げていく、
ということの延長線上にあるのですが、
特にいま私が大切にしているのは、
一回、一回の舞台で得た思いを、次の舞台に繋げていくということです。

きょうはこういう思いで演じることができたと。
それを次の舞台に繋げていったら、今度はどんなものが出てくるだろうと、
それをひたすら繰り返していくということが、
芸を極めることに通じていくのかもしれません。

結局、極めるといっても自分で意識してできることではないんですよ。
ここで極めたと思っても、後世の人から見れば、
まだまだだったという評価をいただくわけで。
 
2015.05.21
仕事にも人生にも締め切りがある
            道場六三郎(銀座ろくさん亭主人)

伝説の料理番組「料理の鉄人」の 初代・和の鉄人として知られる道場六三郎さん。
半世紀以上にわたって日本料理界の先頭を走り、
84歳となったいまもなお、現場に立ち続けています。

修業時代、いつも僕は思っていた。

「人の2倍は働こう」
「人が3年かかって覚える仕事を1年で身につけよう」

ってね。

下積みの期間をできるだけ短くして、
早く一人前の仕事がしたかったから。

そのためには、できるだけ手を早く動かして、
仕事量をこなさなければいけない。

だから修業時代からずっと
「早く、きれいに」を念じながら、
仕事をしてきたんだよ。

念じていると、いろいろと工夫が出てくるんです。

駆け出しのころはこんなことをしていました。
ネギを切るとき、人が2本持って切っていたら、
僕は3本やる。それができたら、
4本、5本で挑戦してみる。
さらに違う野菜でもやってみる。

そうすると仕事が早く片づくだけでなく、
「きょうは1本多く切れるようになった」と
励みになるんですね。

それはささやかな前進に
すぎないかもしれないけれど、
それが仕事の楽しみや喜びにもなりました。

スピードアップだけでは、
人の2倍の仕事をすることはできません。

効率よく働くためには段取りが大切です。
冷蔵庫の使い方一つにしても、工夫次第で仕事に差が出ます。

できる料理人なら冷蔵庫を開けなくても、
どこに何が入っているかわかっているもんです。

すべて暗記しろというんじゃない。
冷蔵庫の中を仕切って、
どこに何が入っているかメモをとり、扉に張っておく。

そうすると、指示されたときに
すぐ取り出せるし、庫内の温度も上がりません。

「冷蔵庫の開け閉めなんて些細なことだ」と
思うようでは、一流の料理人にはなれませんね。

そういう細かい部分にまで意識が回り、
先の先を読むくらいに頭を働かせないと、
少しぐらい料理の腕があっても大成しないですよ。

仕事にも人生にも締め切りがあります。

それに間に合わせるためには、
時間を無駄にせず何事もテキパキとこなさいと。
これはどの仕事にも言えるんじゃないかなあ。
 
2015.05.19
「100-1=99」ではなく
「100-1= 0」
               藤居寛(元帝国ホテル社長)

日本を代表する超一流ホテルとして 名高い帝国ホテル。
その社長、会長、顧問を歴任してきた
藤居寛氏が語った「帝国ホテルのサービスの教訓」は、
ホテルマンのみならず、あらゆる人たちにとって
極めて大事な教えが詰まっています。

帝国ホテルのサービスの教訓としている
算式がありましてね。

それが「100-1=0」というものです。

ホテルでは、ドアボーイがお客様をお迎えして、 それぞれの持ち場が連携しておもてなしして、
最後にまたドアボーイがお送りするわけですけれども、

そのうちのどこか一つでもミスがあれば、
他でどんなに素晴らしいサービスをしても
すべて台無しになってしまいます。

ですからたった一つのことでも気を抜いてはいけない。

一つマイナスがあれば答えは「99」ではない、
「0」だというのが「100-1=0」なんです。

同じことを

「10・10・10(テン・テン・テン)の法則」

というふうにも言っています。

信用、すなわちブランドを
構築するには10年かかる。

しかし、そのブランドを
失うのはたった10秒なのです。

そして失った信用、ブランドを盛り返すには
また10年かかるということです。

長い時間をかけてつくり上げたブランドも、
たった10秒で崩れます。

ですから、一瞬一瞬のお客様との出会いを
本当に大事にしなければいけないのです。
 
2015.05.18

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