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      次代に輝く住まいを創る

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〒971-8134 福島県いわき市鹿島町飯田字八合22

一語履歴WORD vol.136

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組織はそこに...
画壇に背を向け、描くことだけを目的に画業一筋に生きた
孤高の画家:矢谷長治氏。

世俗を断ち、ひたすら天の声に耳を澄まし続けた詩魂の画家は、
心に響く数々の言葉を残されています。

●柿と語る

だいたい11月15日頃から柿がとれる。
テーブルの上に琢さんの柿を並べる。
一週間くらいたつと、水分がさがって柿の形が
おちついてくる。

その中の何個かを選んで描きはじめる。
描きだしたら、その柿には指一本ふれない。
ふれると、ふれたところから腐ってくる。
柿を描き続けていると、柿と実際に語れるようになるのは
一ヶ月過ぎてから・・・

つぶれるまで描き続ける。
三月半ば頃、柿はつぶれてしまう。

ただ不思議なことは、モデルにした柿だけが最後まで残る。
毎年、何十年も描き続けるが、例外はない。
 
2015/04/22

国民教育の師父と謳われた森信三師。

森師の高弟にして教円幼稚園園長の浅井周英さんが語った

    「生命の火をあかあかと燃やして」

      浅井周英(教円幼稚園園長)

浅井 森先生の生き方を振り返るにつけ、冒頭にも申し上げましたが、
   教師の人格をつくる教育を何とかしなければならない、
   という思いが募りますね。

私は和歌山の学校教育課にいた時に教員の採用にも携わったんですが、
面接で小学校の時の担任の先生の名を聞くと、
残念ながらほとんどの人が言えないんですよ。

そこで、

「あなたは子供に名前も覚えてもらえないような先生になりたいか、
 それとも『この先生のことは一生忘れません』と言われるような先生になりたいか」

と聞くと、やっぱり
忘れられない先生になりたいと言うんです。

そういう先生になるためにはどうしたらいいかといえば、
やはり人格を養わなければなりません。

寺田 そのとおりですね。

浅井 「薫習(くんじゅう)」という言葉がありますけれども、
   教師には人間的な薫りが相手に移っていくようなものが
   なければなりません。

ただ知識を教えるとか、やさしく教えるとか、
そんなものではダメです。

小学生の時、冬に学校の校門横の泉水に放り込まれた人がいましてね。
その先生を恨んでいるかと聞いたら、恨んでいないと。

一緒に飛び込んで自分を引き揚げてくれ、
「寒かったろう」と言ってくれたんだと。

その人はその先生の訃報に接した時、
あぁ生きていらっしゃる間にお目に掛かりたかったと
ため息をついたそうです。

そういう子弟の深い結びつきは、
デジタルの世界では絶対にできません。
もっと人間的なものなんですね。

本当に人と人とが向かい合って、感動を伝え合える教師。
やっぱり情熱があって、元気で、よしやるぞ、
という気概を持った教師でなければなりません。

寺田 おっしゃるとおりです。

浅井 その意味で、ぜひとも心に刻んでいただきたいのが、
   森先生のこの言葉です。

「『石も叫ばん』という時代ですよ。
 いつまで甘え心を捨てえないのですか。
 この二度とない人生を、いったいどのように生きようというのですか。

 教師を志すほどの者が、自分一箇の人生観、世界観を
 持たなくてどうするのです。
 眼は広く世界史の流れをとらえながら、
 しかも足元の紙屑を拾うという実践をおろそかにしてはなりませんぞ」

「教育とは、流れる水に文字を書くようなはかない仕事なのです。
 しかし、それをあたかも岩壁にのみで刻みつけるほどの真剣さで
 取り組まなければならないのです。

 教師がおのれ自身、あかあかと生命の火を燃やさずして、
 どうして生徒の心に点火できますか。
 教育とはそれほど厳粛で崇高な仕事なのです。
 民族の文化と魂を受け継ぎ、伝えていく大事業なのです」

この火を吐くような先生の思いを、教師に限らず、
いまを生きるすべての人がしっかりと受け止めなければならない。

そして各々の人生心得帖に 刻み込まなければならない。
 
2015/04/21
出版業界を取り巻く環境が厳しさを増す中、
ここ15年の間で店舗数を倍増させ、
国内外合わせて年商1000億円を超える
ナショナルチェーン書店の紀伊國屋書店。

  「桃李ものいはざれども下おのづから蹊を成す」

    高井昌史(紀伊國屋書店社長)

 私が成蹊大学を卒業後、
紀伊國屋書店に入社したのは1971年。

当時から紀伊國屋書店は、書店販売に限らず、
外商や出版、さらにはホール運営など、
広範囲にわたる事業活動が大変魅力的で
大学生の就職先として人気の高い企業の一つでした。

私もご多分に洩れず、そのような紀伊國屋書店に惹かれて
入社試験を受けた一人だったというわけです。

以来、法人外商を担当する営業部に配属されたのを皮切りに、
新設される大学や公共図書館などに向けて
書籍や雑誌、設備などを販売する図書館営業、
また、大学図書館の蔵書目録のデータベース化を受託する情報製作部の立ち上げなど、
様々な取り組みに携わってきました。

しかし、その歩みは、IT化や国際化の進展、
電子書籍やインターネット上の商取引を専門とするアマゾンの登場、
若者の読書離れなど、出版業界を取り巻く環境が目まぐるしく変転する中で、
まさに逆境と新たな挑戦の連続だったと言えるでしょう。

そのような中で、常に私の心の支えとなってきた言葉があります。
それは、

「桃李(とうり)ものいはざれども
 下(した)おのづから蹊(こみち)を成す」

という言葉です。

成蹊の名は、『史記』の作者・司馬遷が「李将軍列伝」において、
李廣の人物を讃えるために引用したことわざ
「桃李不言 下自成蹊」に由来しています。

桃や李はものを言うわけではないが、
美しい花を咲かせ、おいしい果実を実らせるため、
自然と人が集まり、そこに蹊ができる。

桃や李は人徳のある人のたとえで、
優れた人格を備えた人のまわりには、
その人を慕って自然と人が集まってくるという意味ですが、
私も遠く及ばないけれど、
いつかそのような人物になりたいと願い、
生きていきたいと思っていました。

その言葉の意味を身を以て示し、
私の人生に大きな影響を与えてくださった方がいます。

それは、『明治前期日本金融構造史』、『経済発展と金融』など
金融学の著作を残され、成蹊大学や東洋英和女学院大学で
学長などを歴任された故・朝倉孝吉先生です。

在学中から公私ともに大変お世話になり、
とりわけ先生の晩年に、自伝『蹊その二』の出版を仰せつかって、
そのお手伝いをさせていただいたのはよき思い出となっています。

初めて先生の東京・大塚にあるご自宅にお伺いした際のことも、
いまなお忘れることができません。

名門の家に生まれ、戦前のエリート教育を受け、
大学の学長まで務められた方であっただけに、
どんな豪邸に住んでいるのだろうかと、
恐る恐る訪問したのですが、
目に飛び込んできたのはごく普通のお住まいでした。

また、先生の人柄は、肩書の多さからも窺えました。
これは2006年に先生がお亡くなりになられた後のこと。

蔵書と遺品整理のお手伝いをさせていただいた際に、
部屋から履歴書に使う証明写真がどっさり見つかったのです。

確か生前にお聞きしたところによると、
先生は公益法人の理事だろうと、
ボランティア団体の役職だろうと、
頼まれたことはすべて引き受けていたといいます。

その数は実に数十に上り、評議員会や理事会が開かれる度に出席し、
事情で出席できない場合にも、委任状を出し、
きちんと議事録を読んでいました。

私も現在、十ぐらいの肩書を持っているとは思いますが、
とても先生には敵わない。

そのような先生の人柄を慕って、いつもご自宅には卒業生や関係者など、
多くの方々が訪れていたようです。

「桃李不言 下自成蹊」
 
2015/04/20
2015/04/20

突然の事故で、22歳の時に
体の自由を失った大石邦子さん。

煩悶と苦悩を乗り越え、右手一本で紡ぎ出されるエッセイは
読者に大きな勇気と感動を与えています。

絶望のどん底にあった大石さんは
いかにしてその苦難を乗り越えていったのでしょうか。

    「ちょっとだけ桜を見てこようか」

    大石邦子(エッセイスト)

石川 先生が事故に遭われたのは
   勤務先に向かわれるバスの中とのことでしたね。

大石 はい。昭和39年、もうすぐ
   東京オリンピックの開会を控えた9月17日でした。

当時私は出光興産の会津事務所に勤めていました。

その日も7時20分の満員バスに飛び込んで、
運転席を取り囲むパイプに掴まり立ちをしていたんです。

しかし、横からオート三輪車が飛び出してきて、
バスが急ブレーキをかけた瞬間、
私はみぞおちをパイプに打ちつけて、
そこに乗客が将棋倒しで倒れてきたんです。

その重みを一身に受けて、
「ああ」と声を上げたところまでしか覚えていません。

目が覚めた時、そこは病室でした。
そして部屋が燃えるように赤かったんです。
たぶん夕日が差し込んでいたからだと思います。

そこからの日々です。
回復の兆しの見えない日々を過ごしながら、
いつしか死を願うようになって、
自殺未遂をしたこともありました。

石川 ご著書にありましたね……。

大石 痛みでなかなか眠れないので、
   睡眠薬の量を増やしてもらうようお願いして、
   それを溜めておいて一気に飲んだのです。

だけど、死ねませんでした。
母はショックで心筋梗塞を起こし、
父は私の頬っぺたをピタピタ叩きながら言いました。

「死んだほうが楽かもしれない。
 でも、生きなきゃダメなんだ。
 お父ちゃんのためにも、お母ちゃんのためにも
 生きなきゃダメなんだ、分かるか」

って、涙をこぼしました。

私はそれまで、命なんていうことを
突き詰めて考えたことはなかったんです。
命は自分のものだと思っていました。

しかし、愛情で繋がっている命は一つの体のようなもので、
私が苦しい時、母も苦しいんだなって。
父もきょうだいもお友達も同じで、
私が死ぬっていうことは、最悪の苦しみを与えることになる。

自分のものだからどうしても構わない
というものじゃなかったんだと感じました。

ただ、本当に生きるに生きられない、死ぬに死ねない、
という思いは残りましたね。

石川 死ぬに死なれない……それはものすごい絶望ですね。

大石 はい。絶望の中の絶望でした。

自暴自棄にも陥り、病室で2度目の春を迎えたある日、
自分の心が抑えられなくなったのです。

昔はお城から病院までずーっと桜並木が続いていて、
夜には雪洞が灯って、夜桜見物の人たちが賑やかに行き交うわけです。

その賑わっている世界と、
私のいる世界には越えられない淵があるんですね。

その頃、母もがんで入退院を繰り返していましたから、
    私の付き添いのために妹が大学をやめることになりました。

みんな私のために不幸になる。
私なんか生きていても世の中の何の役にも立たない。

そう考えるとカーッと頭にきて、
とにかく手当たり次第に物を投げつけて、
真夜中大暴れをしたんです。

その物音は病棟中に響いたと思います。
看護師さんが飛び込んできました。

私は彼女にも物をぶつけたんです。
同い年の看護師さんでしたが、
何も言わないで私をじっと見ている。

いよいよ疲れ果て、声も涙も出なくなった時、
彼女は私の頭を抱き寄せて、涙を拭いて、こう言ったんです。

「ちょっとだけ桜を見てこようか」

そう言うと、自分のカーディガンを私に着せて、
タオルケットで私を背負うと、真夜中の階段を下りていってくれたのです。

彼女の背中の温もりを感じながら、本当に後悔しました。
こんなことをしても何にもならないのだと。
人を困らせるだけで、何の前進もないのだと。

そして、この人は生涯治ることのない障害を負った人間の、
やりきれなさ、虚しさを分かってくれているのだと感じました。
 
2015/04/19

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