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素人ばかりだった京大アメフト部を鍛え、 十度の日本一に導き、同大伝説のクラブへと育て上げた 「腹を括れ」 水野彌一(京都大学アメリカンフットボール部前監督) 私は昭和四十三年に大学院を卒業した後、 本場のアメフトを学ぼうとアメリカへ留学しました。 これが一つの転機になりました。 それまではいわゆる体育会のシゴキをやって、 普通じゃない、特別な選手をつくることが スポーツの指導だと思っていましたが、 アメリカはそうじゃなかった。 集めてきた選手に自分たちの戦術を教えて、 組織で試合に勝つと。その大切さを学びました。 それで留学前は関学と戦っても 100対0という世界だったのが、 帰国後、監督に就任した昭和四十九年の試合では17対0。 負けはしましたが、この時が京大アメフト部元年だったと思います。 ただ、そこからなかなか勝てませんでした。 その年、さすがに無給のままでは 活動を続けられないと思って、 スズキインターナショナルという会社に就職しました。 そこは西ドイツ(当時)のビール製造機械を販売しています。 社長さんは鈴木智之さんといって、 関学アメフト部を四年連続全国制覇に導いたスター選手です。 その人のもとで働きながら、 アメフトの神髄を学ばせていただきました。 それで、いつもおっしゃっていたのは 「小手先のフットボールはするなよ」と。 最初はその意味が全く分からなかったんです。 やっと理解できたのは昭和五十七年の時でした。 ある試合の休憩中、副将の四年生が 「ちょっと頭が痛い」と言ってきたんです。 凄い体当たりをしたわけでもなかったので、 ベンチで休ませていたらバタッと倒れた。 すぐに救急車で運んだんですけど、結局駄目でした。 私は入院していた一か月間、 毎日病院に詰めていました。 お父さんとお母さんがずっと看病しておられるんですね。 それを見るのは辛いことでしたけど、 そこで感じたのは、人間っていうのは あんな頑丈なやつでも呆気なく死んでしまうということ。 もう一つは、親が子を思う心、これは理屈じゃないなと、 物凄く感動しました。 もう、彼は帰ってきません。 ならば自分も人生を捧げないとフェアじゃないだろうと。 それで、「自分をなくそう」と思いました。 それまではやっぱり 「自分が強くする」「自分が日本一にする」と、 自分が強かったんです。 でも、もう自分はどうでもいいと腹を括りました。 それからです、すっと勝ち出したのは。 だから私は京大生に「腹を括れ」と いつも言っているんです。 腹を括れば自分がなくなる。 そうすれば、逆に自分が自由になるんです。 自分に制限をかけているのは 自分でしかないですから。 |
2013/05/13 |
新たな文化の発信地として、世界中の注目を集める 金沢21世紀美術館。 開館7年目にして、入館者数一千万人を突破し、 現在も圧倒的な集客力を誇る。 「奇跡の美術館はこうして生まれた」 蓑 豊(兵庫県立美術館館長、金沢21世紀美術館特任館長) 金沢市長から(金沢21世紀美術館館長就任の)オファーを いただいたのは2003年で、六十二歳の時です。 美術館予定地の向かいにあった県庁が移転し、 四千人いた人通りが途絶えたために街は一気に寂れ、 商店街ではシャッターを下ろす店が相次いでいました。 ただ当時、私は大阪市立美術館の館長をしていたので、 両方をやるわけにはいきません。 大阪市長に話をしていただき、それで許しが出れば行きます、 ただし行っても週一回程度ですよと話をしていたんですが、 その割合がいつの間にか逆転してしまいました。 自分でもよく働いたと思います。 学芸員はよく知っているんですよ。 現代美術は人が来ないと。 私は記者会見で、目標は年間四十万人と公言したのですが、 学芸員は「五、六万人入ったらいいほうですよ」と 言うから凄く怒ってね。 「君たち、ここには市民の税金を二百億円も使っているんだ。 市民全員の四十六万人が来ることを考えろ」 とハッパを掛けました。 とにかく十万人は目途がつかないと安心して寝られないので、 まずは十万人を確保しようと。 それで目をつけたのが、子供たちですよ。 金沢市内には小中学生が四万人いるというので、 じゃあ全員連れてこようと。 初年度から追加予算を認めてもらうのは大変でしたが、 市と掛け合ってなんとか五千万円の予算を取り付け、 全員をバスの送迎つきで無料招待することにしたんです。 次に目をつけたのが美術館の建設に携わった人たちです。 調べてみると延べ二万人、実数三千七百人くらいいると。 その人たちの名前をプレートに刻み 「この美術館の建設に携わった人々」と題を付けて 地下のシアター前に掲げる。 そうすれば、本人はもちろん、その人が家族を連れて 一緒に来てくれるに違いないと考えたんです。 それは彼らの誇りにもなるし、やる気も出てきますからね。 これでさらに一万人は見込めるだろうと。 |
2013/05/09 |
並み居る大手家電量販店を抑え、 栃木県内のカメラ販売シェア十五年連続トップに立つ サトーカメラ。 父親の始めた小さな写真店を今日へと導いてきたのが 同社専務の佐藤勝人氏です。 来客リピート率80%以上、利益率40%以上という 驚異的な数字を叩き出し、小売業界に旋風を巻き起こしている。 「桜の写真が教えてくれたこと」 佐藤勝人(サトーカメラ専務) 写真の価値というのは単に上手い、下手だけではありません。 その一枚一枚に撮った人の様々な思いが込められているんです。 一昨年の春、アソシエイトの企画で 「桜のフォトコンテスト」をやりました。 みんなで入賞作品を選んでいた時、 明らかにアングルの悪い写真が一枚あった。 結局、その写真は選ばれず、コンテスト終了後、 持ち主に返すことになりました。 その方がお店に来た時に 「どういうイメージで撮ったんですか」 と聞いたんです。すると、 「実は……、病気で長期入院している母が ベッドから撮ったものなんです」 と打ち明けてくれました。 聞くと、寝たきりのお母さんの 数少ない楽しみの一つが 病室の窓から年に一度だけ見える桜だった。 一年中桜を見ていたいというお母さんに、 息子さんはデジカメをプレゼントしたそうです。 お母さんはそれから毎年、 そのカメラで桜を撮影するのを楽しみにしていた。 息子さんが 「お母さんが撮った写真、サトーカメラの 桜のフォトコンテストに出しといたよ。 入選するといいね」 と言うと、お母さんは嬉しくて ボロボロ泣いていたそうです。 私たちはすぐにその写真を特別賞にしました。 間もなくお母さんは亡くなられましたが、 その桜の写真をお葬式の時にも飾ってくれたそうです。 その後、息子さんがお店に来て、 深々と頭を下げながら 「ありがとうございました。 母は生まれて初めてのフォトコンテスト入賞に 本当に喜んでいました。 サトカメさんのお陰で 天国に行くことができたと思います」 と。その瞬間、我われは 「想い出をキレイに一生残すために」 をずっと追求していこう、と 改めて確認し合いました。 |
2013/05/08 |
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