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[人生を変えるひと言をくれた田端さんのお話] クロフネカンパニー社長 中村 文明氏 将来に夢や希望を見出せず、働く気力も湧かない若者・ニートの数は、いま全国 で64万人にも上るという。 日本の将来に暗雲をもたらすこうした減少の中、自ら道を切り開き、人生を精い っぱい輝かせて生きる若きサムライもいる。 家出同然で上京し、現在、事業、講演、執筆と大活躍の中村文明氏に、これまで の体験をもとに、今の若者や、道を求める人へのメッセージを語って頂いた。 十八歳の時に、家出同然で上京してきた僕が、ここまでさせていただけるなんて 夢にも思いませんでした。十八年たった今、これまで歩いてきた道を振り返って みると「人に出会って、自分に出会った」というのが実感でした。 次々といろんな方に出会って、その度に、その人の言うことを素直に受け入れ、 実行してきました。そうすると、自分という小さい殻が破れて、世界がどんどん 開け、思いもよらない、新しい自分に出会えたのです。 今、ニートが全国に64万人もいるといいます。 「夢がない。何をやったらいいかわからない」という若い彼等に対して、ネガテ ィブな見方がなされていますが、今、こうしていろんな活動をさせて頂いている 僕にも、実は夢なんかありませんでしたからね。 高校の頃までは、将来何をやりたいとか、そういうのが、全く無かったのです。 だからといって、他のみんながそうするからと、安易に進学したり、就職する気 にもなれなかった。一所懸命生きたいという気持ちは凄くあったんですがね。 だったら、もっといろんな人に会って、生き方や、考え方を学んでから、決めて も遅くはないだろうと思って、上京したんです。 そこで、人生が変わるような大きな出会いがあったのです。 今もその人のことは、人生の師と仰いでいますが、それまで夢を見出せずに悩ん でいた僕は、その人からの一言で、心にパチッとスイッチが入ったんです。 「夢があるというのは、確かに素晴らしい。ならば、夢のないやつはどうすれば いいか。とにかく、目の前の人を、喜ばせることを考えればいい。それを一所懸 命続けていけば、おのずと自分の役割にたどりつくんだ」と。 それまでの僕は、夢を語るということは、 「何か人よりも大きな、かっこいいことを言わなければいけない」、と勝手に思 い込んでいたのです。 今の若い人もきっと同じで、夢というプレッシャーに負けているんだと思うんで す。だけど、目の前の人を喜ばせることなら、自分にもできます。だから、とに かくそれをやり続けました。 いつも相手の予測を上回るくらいにやっていたら、お前でなきゃいかん、と名指 しで頼まれる回数が、どんどん増えてきたんです。 人生は出会いが全てで、出会った人を喜ばせることから、道は開けていくという ことを、今つくづく実感しています。 目標を持てなくて悩んでいる若者にとって、「目標を持て!」「頑張れ!」と言 われるのは辛いと思うんです。でも、どんな人でも、意識して周りを見れば、目 の前にやるべきことが、いくらでもある。まずは、それまで疎かにしていたこと を、一所懸命やってみることから、始めればいいんじゃないでしょうか。 どんな仕事も、誰かの役に立つために存在しているわけで、仕事そのものに良し 悪しはない。えり好みせず、どんな仕事でも、相手に喜んでもらえるくらい一所 懸命にやってみる。そうすればきっと仕事も楽しくなると思うんです。 僕が26歳の田端さんに、焼き鳥屋で、たまたま隣り合わせになったんです。 田端さんは、これから新しいことを始めるために、準備をしているとのことでし た。 田端さんは、僕に対してしきりに「何の為なんだ」と問いかけてくるんです。 「何の為に、田舎から出てきたんだ」 「何の為に、そのアルバイトをしているんだ」 「稼いだ金は、何の為に使うんだ」と。 答えに詰まっていると、 「お金はね、入り口ではないよ」と言われたんです。 「みんないかに儲けるかという、入り口のことばかり考えている。だけど本当に 大事なのは、何の為に使うかという出口の方だ」と。 僕はそういう意味では何も考えていませんでした。結局、人の目ばかり、気にし ていたんです。他人と比較ばかりしていたんです。 田端さんは、そういう僕に、 「他人との比較じゃない。自分の生まれた意味とか、自分の生きて行く価値とか そういうしっかりした座標軸を、若いうちから持った方がいい」 と言われました。 僕は最初は、正直、うっとうしい人やなと思いましたが、その熱意溢れる話しぶ りに、だんだん引きこまれていきました。 田端さんが、 「これから自分は、人の役に立つ人間、人に喜ばれれる人間になりたい。将来、 でっかい夢を叶えるために、今仲間と一緒に野菜の行商をしている」と言われる のを聞き、ぜひ自分も仲間に入れて欲しいと頼んだのです。 築二十七年の車庫の二階に、六人で共同生活をしていました。毎朝午前二時半に 起き、軽トラックで市場から野菜や果物を仕入れて行商に出かけます。一日十五 時間働いて、へとへとになって部屋に戻ると、今度は夜中まで、「いかに生きる か」の勉強会です。 田端さんは、いずれ六本木に店を出すぞと言いました。 他人が聞けば、ろくに給料もなく、売れ残った野菜ばかり食べている自分達には 不可能だと思われたでしょうが、田端さんは「世間の奴と同じことをやって、大 きな夢が叶うと思うか?俺が今苦労するのは、でっかくなるためだ。だけど、お 前たちにも、同じくらいにでっかくなってもらわないと、自分がでっかくなった ことにはならないんだ」と。 僕達は、そんな田端さんに、ただ無我夢中でついていきました。 大切なのは、日々の行動なんだな、ということを教えられました。それを突き詰 めれば四つに集約されるんですが、非常に分かりやすくて、小学生にもできる簡 単なことです。 1.「呼ばれたら、何があってもまず返事」。 僕らは田端さんに対して、ノーは一切無かったんです。何を言われても、返事は 0.2秒で、ハイです。普通は返事の前に一旦考えてしまうのですね。 でも、そこで考えることって、要は、損か、得かなんです。損得で返事を迷うの です。そうすると、 「お前みたいな勉強もできんあほうが、考えたらいかん。損得を考えずに、すぐ ハイだ。まずは素直に受け入れ、やってみることだ。」と叱られました。 2.二つ目は「頼まれごとは、試されごと」だというんです。 ものを頼まれるのは、面倒臭いことだと考え勝ちです。だけど、頼まれるという ことは、その人から試されているということだ。だから、頼んだ相手を驚かすく らいのことをやれ。徹夜してでも、「お前凄いな!」と相手をビックリさせるく らいやれ、と。 3.三つ目は「できない理由を言わない」。 たとえ、1と2を理解したつもりでも、いざ体を動かそうとすると、ともすれば どうしても、ブレーキがかかるものです。そのブレーキになるのが、「できない 理由」なんです。 何か大きなチャンスが巡ってきても、「でも、俺は人前で喋るのは苦手だから」 とか、「でも、俺はまだやったことがないから、無理だろう」とか、できない理 由をあれこれ並べて逃げる。 だけど、田端さんは、僕達ができない理由を言おうものなら、たちまち 「やってもいないうちから何がムリだ」と叱られるんです。 「本で学ぶこともできれば、人に聞くこともできる。そしてやってもダメなら、 もう一度、やり直せばいいだろう」って。 4.四つ目は「今できることは、山ほどある」と言うんです。 だから、「そのうちという言葉を吐いて、先送りするな。今すぐやれ。その一歩 を踏み出さない限り、少しも前には進まない」と。 以上、四つの教えです。簡単でしょう。これを皆で毎日続けていたら、目の前の 景色が、どんどん変わっていったのです。だって親分が「ああせい、こうせい」 と言うと、全員揃って、0.2秒でハイと返事をし、あなたの予測を上回りまっ せと体を動かし、誰も、できない理由を言わず、先送りせず、すぐやるわけでし ょう。これを続けていたら、協力してくれる人がどんどん増えて、1年で六本木 にショットバーを出すことができたんですよ。 僕は小学生の前でも、講演を頼まれることがあるので、この体験談を面白おかし く一所懸命に話すと、みんなハイハイと手を挙げて 「今日から、お母さんにお使いを頼まれ、0.2秒でハイと返事をします」 「お母さんの予測を上回る速さで行ってきて、ビックリさせて、お母さんからま ず味方につけます」 「両親を味方につけて、大きくなったら、きっと夢を叶えます」って、やる気マ ンマンで宣言するのです。 だけど大人ができないんですよね。 僕は結構意地悪なところがあって、以前は講演した後、参加者の帰り道の脇に隠 れて、ひそかに反応を確かめていたんです。 そうすると「面白い話だった」「元気をもらえた」「来てよかった」と拍手して くれていた人達が、大概言うんです。「でも」って。 「でも、あの人は特別なんだろう」「でも、私の立場は違うし」と聞いた直後に 言っている。残念ですが、そういう人は変われないんですね。 |
2013/05/07 |
[縁を生かす] その先生が五年生の担任になった時、生徒の中で一人、服装が不潔でだらしなく どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばか りを記入するようになった。 ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。 「朗らかで、友達が好きで、人にも親切、勉強もよく出来、将来が楽しみ」 とある。 「これは間違いだ。きっと他の子の記録に違いない」先生はそう思った。 ニ年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」 と書かれていた。 三年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」 後半の記録には 「母親が死に、希望を失い、悲しんでいる」とありました。 四年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力 をふるう」 先生の胸に激しい痛みが走った。駄目と決め付けていた子が、実は、突然の深い 悲しみをじっと胸に収め、必死になって生き抜いている生身の人間として、自分 の前に立ち現れてきたのだ。 先生にとってまさに目を開かれた瞬間であった。 放課後、先生は少年に声をかけた。 「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からな いところは教えてあげるから」 少年は初めて笑顔を見せた。 それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が 初めて手を挙げたとき、先生に大きな喜びが沸き起こった。 少年は自信を持ちはじめていた。 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押し付けてきた。あと で開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違い ない。先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。 雑然とした部屋で独りで本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の 胸に顔を埋めて叫んだ。 「ああ、お母さんの匂い!今日はすてきなクリスマスだ」 六年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、少年から一枚のカード が届いた。 「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番すばらしい 先生でした」 そして卒業後、六年経って、又カードが届いた。 「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当してもらって、とても幸せ でした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学できます」 十年を経て、又カードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と、父親に 叩かれた体験があるから、患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締め くくられていた。 「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのまま駄目になってしまう僕を 救って下さった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕に とって最高の先生は、五年生の時に担任して下さった先生です」 そして一年経って、届いたカードは結婚式の招待状だった。 「どうぞ、母の席に座って下さい」と一行、書き添えられていた。 たった一年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠 り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の素晴らしさがある。 人は誰でも無数の縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花 させていく。大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。 |
2013/05/07 |
小学校6年生が作った詩 「お早うと言うと、目が覚める。 頂きますと言うと、お腹がすく。 行ってきますと言うと、元気が出る。 有難うと言うと、気持ちがいい。 ごめんなさいと言うと、ほっとする。 お休みなさいと言うと、いい夢が見れる。 あいさつって嬉しいな」 |
2013/05/07 |
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