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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.058a

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基本を見直す 人物をみる八観法 060a泥棒と悪口...
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幸運に恵まれるには... 縁と絆 059aイチローの目標設定術
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江崎グリコと松下幸之助... 058a闘病15年... すぐやる...
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どん底から救った母の一言 057a息子からの弔辞 057b生きたかった未来
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たらいの水 056a人生一生のドラマ 056b「果決」こそリーダーの条件
一語履歴 vol.055
たねやのバイブル 055a人を生かしているもの 055b売り手よし...
一語履歴 vol.054
温故知新 054a娘が残した九冊の日記 054b世界が注目する...
一語履歴 vol.053
東京大空襲で見た... 053a母との葛藤 053b大哲学者カント誕生秘話
一語履歴 vol.052
たのしみは 052a易経に学ぶ... 052b自分の仕事に...
一語履歴 vol.051
父を助けて下さい 博多通りもん 医師からの宣告 (人という字...)
すぐやる、必ずやる、出来るまでやる  
          永守重信(日本電産社長)

【記者:ゼロからここまで会社を成長発展させることが
    出来たのは、なぜだとお考えですか】

信じる通りになるのが人生であるということですね。
僕はこの言葉を自分で色紙に書いて、
目のつくところに置いています。

自分でこうなりたいと思っていることもなれないのに、
思わないことが実現するわけは絶対にないですから。
だから信じる通りになるのが人生ということですな。

しかし世の中の人はみんな信じない。
頭のいい人ほど先が見えるから信じませんね。
できるわけがないと思ってしまう。
だからむしろ鈍才のほうが教育しやすいですね。

創業間もないころの日本電産は、
私の家の一室で図面を引き、桂川の堤のそばにあった
三〇坪ほどの染め物工場の一階を借りて、
旋盤とボール盤、プレス機を一台ずつ入れて
仕事を始めたんです。

どこへ行っても仕事はもらえず、
やっと受注できた仕事といえば
過酷な注文がつくために
ほかのメーカーのどこもやらないような仕事ばかり。
技術者みんなに言うと絶対無理だと言う。

そういうときはみんなを立たせて、
いまから出来る出来る一〇〇回言おうというわけです。

「出来ます。出米ます。出来ます……」。

「どうや」と。

「いや出来ません」。

今度は一〇〇〇回言う。

そうすると不思議なことに
だんだん出来る気分になってくるんです。

そういう気分になったところで一気に始める。
すると、客先の要求する性能に及ばないまでも
かなりレベルの高い製品が仕上がる。

こうやって日本電産の技術力が蓄積されていったんです。

このときに「とても無理だ」「不可能だ」とあきらめていたら、
日本電産はとっくに倒産していたと思います。

社員によく言うんです。

「物事を実現するか否かは、
 まずそれをやろうとした人が“出来る”と信じることから始まる。

 自ら“出来る”と信じたときに
 その仕事の半分は完了している」

とね。
 
2013.08.21
闘病15年 5000日 病を見つめながら自らを練った
                      常岡一郎

明治三十二(一八九九)年、福岡県生まれ。
少年期から頭脳明晰、正義感が強く、 慶應義塾大学予科一年の時には
島崎藤村らを招いて講演会を開催、 自らその前座を務めるといった
才気煥発な青春時代を送った。

議論をすればたちまち相手を論破。
カミソリと渾名(あだな)されたという。

この人の人生に暗雲が立ちこめたのは大学卒業目前。
肺結核で倒れたのである。

一転して病床に伏す身となり、
近寄ってくる者はいなくなり、
孤独を嘆く日々を過ごすことになった。

そんなある日、一人の見舞客が訪れ、常岡に言った。

「比叡山も高野山ももとは誰も住まない田舎だった。
 そこに徳の高い人が住み、人々が集う所となった。

 あなたは人々が群れる東京という都会に住んでいるが、
 周りに誰も寄ってこない田舎だ。

 そんな人間でどうする。

 徳を積んで病気と縁を切りなさい」

このひと言に常岡は奮起、
大学を中退し修養生活に身を投じる決心をした。

柳行李にトイレの掃除道具を入れ、
各地を回って奉仕作業を始めたのである。

常岡は言う。

「闘病十五年、五千日。
 病を見つめながら自らを練った。

 病を治すことをやめ、病で自分の性格を直すことに
 全心全力を尽くし、九死に一生の中から心魂を練ってきた」

ついに病を克服した常岡は昭和十(一九三五)年、
修養団体・中心社を立ち上げ、月刊誌『中心』を発行、
講演に人生相談に全国を行脚、 九十歳まで人としての道を説き続けた。

すべてを人のために使い切り、出し切った人生だった。
 
2013.08.19

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