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先天性四肢欠損症――。 生まれつきほとんど手足がないという 重度の障碍を抱えられている佐野有美さん、23歳。 プロの歌手として活動する傍ら、年間約100回、 講演で全国各地を飛び回り、多くの方々に 感動と勇気を与えておられます。 「いや、大丈夫。もう一回やりなさい。有美ならできるから」 佐野有美(さの・あみ=車椅子のアーティスト) 【記者:小さい頃にご両親から特訓を受けられたと おっしゃっていましたが、 どのようなことをなさっていたのですか?】 皆さんもなんで手で食事をするのって 急に言われると困るじゃないですか。 それと同じように私も唯一あったこの三本の指で、 ごく自然と周りのものを触ったり、掴んだりしていたようです。 それを見た母が、 「あれ? もしかしたら足でいろいろできるんじゃないか」 と思ったらしく、積み木やおもちゃで遊ばせたり、 フォークやスプーンを持たせてくれたんです。 三歳の時、あゆみ学園という 肢体不自由児施設に一年間だけ通っていたのですが、 そこで着替えの練習をしていた記憶があります。 これは私の中で一番嫌な訓練でしたね。 フックのついた柱が二本あって、 その間にパンツやTシャツをかけておくんです。 そこをお尻で移動して、脱いだり穿いたりする 練習をしたんですけど、なかなか上手くいかない。 私が「できない」って言うと、 母は「やってみなきゃ分からない」と。 ところが、何回やってもできないわけですよ。 それで段々嫌になってしまったんです。 ただ、どんなに弱音を吐いても、 「いや、大丈夫。もう一回やりなさい。有美ならできるから」 と言って、母はとにかくやめさせてくれませんでした(笑)。 そうやって毎日、毎日、言われるがままにやっていたら ある日、Tシャツを着ることができました。 その時、母に 「ほらね。やっぱり有美はできるんだよ」 って言われたのが凄く嬉しくて、 そこからどんどんチャレンジ精神が出てきました。 そのうち道具を使わずに、足でTシャツの裾を引っ張って 着脱したりと、自分でいろいろ考えていけるようになりました。 私は、他人と同じ方法ではできません。 ピアノを弾いたり、字を書いたり、 裁縫とかも自分なりに工夫してできるようになりました。 それから、小学校三年生の時に水泳で 二十五メートル泳ぎたいって思ったんです。 一般学校に通っていたので、私以外はみんな手足があって、 普通に泳いでいました。 それを見て、私もみんなのように泳ぎたいなと。 そしたら父が協力してくれて、 どうやったら泳げるか一緒に考えてくれました。 そして辿り着いたのが有美泳ぎ(笑)。 バタフライのように体全体をうねらせるんです。 息継ぎする時はクルンと仰向けになって、 またクルンと戻る。 それなら泳げるんじゃないかということで、 地元の市民プールで父と特訓を始めました。 ところが、何度も溺れるんですよ。 それで水が怖くなってしまって、やっぱり私には無理だと。 でも、その時に父が 「ここで諦めていいのか? さっき一人で五メートル泳げただろ。まだ行けるぞ」 って励ましてくれたんです。 「そっか、私の目標は二十五メートルだ。 諦めるわけにはいかない」 と思い直して、頑張って練習を重ねて、 遂に二十五メートルを泳ぐことができたんですよ。 そしたら父が 「学校でも泳いでみろ。もっといけると思うよ」 と。それで先生に 「限界まで泳がせてください」とお願いして、 クラスの皆に見守られながら泳ぎました。 ターンの際は、片足を水中で回し、 体を半回転させて短い足で壁を精いっぱい蹴る。 そして、顔を上げた瞬間、もう先生も友達も大拍手。 気づいたら百メートルも泳いでいたんです。 あの時の達成感はもう本当に忘れられません。 いま振り返ると、初めて心の底から 諦めないでよかったって思えた瞬間だったと思います。 |
2103/07/18 |
「もう駄目だ そこから本当の人生が始まる」 梶山祐司(元競輪選手) 二年前、私は通算三十四年に及ぶ 競輪選手生活にピリオドを打ちました。 もともと運動神経がよいほうではなく、 走るのも速くはなかった私にとり、 競輪人生は試練の連続でした。 努力が結果に結びつかない現実にも幾度となく直面しました。 しかし、日々の練習や勝負の中で、 私は人生の宝物ともいえる 掛け替えのない学びを得ることができたのです。 家が貧しかったため、兄は中学を出て すぐ働きに出ていました。 私も将来を考える時期に差し掛かった頃、 たまたま兄に連れていかれた競輪場で、 人間が自らの力で生み出すスピードの凄さに たちまち魅了されました。 こんな素晴らしい世界で日本一になってみたい―― 強い思いに突き動かされ、 私は競輪選手を目指すことにしたのです。 プロになるためには、まず競輪学校へ 入学しなければなりませんが、 定員の十倍もの志望者が殺到します。 資質に劣る私は、とにかく人の何倍も練習しようと決意し、 多い日は夜中の一時半からその日の二十一時まで二十時間近く、 限界を超える鍛錬を積んで合格を果たし、 入学後も人一倍練習を重ねてプロになったのです。 当時、競輪選手は四千人以上いました。 レースは実力別に七つのクラスに分けて行われ、 これも当時の頂点であったA級一班の百二十人に 入ることを目指してしのぎを削るのです。 もちろん私の目標もA級一班でしたが、 とても口には出せませんでした。 周りはインターハイの優勝者など、 桁外れの脚力の持ち主ばかり。 一方私は、競輪学校のコンピュータによる体力分析で、 プロでは勝てないと指摘されていたのです。 しかし私の視野には、苦労して プロの切符を手にした競輪の世界しかありませんでした。 三年やって駄目なら死ねばいい。 その代わり命懸けで三年やろうと決意しました。 早朝に静岡市内の自宅から御前崎まで往復八十キロ、 朝八時に再びサドルにまたがり河口湖まで往復二百キロ、 戻ってくると競輪場で十九時までスピード練習を行い、 さらに二十時から大井川方面まで走って二十二時に帰宅。 少ない日でも一日二百キロ、月六千キロ、年間七万二千キロ、 死にもの狂いでペダルを漕ぎ続けました。 私以上に練習した人はおそらくいなかったと思います。 最初はなかなか勝てませんでしたが、 三年経つ頃には努力が確実に成績に結びつくようになり、 八年で念願のA級一班入りを果たすことができたのです。 コンピュータで筋力は分析できても、 人間の気力までは分析できません。 気力さえあればデータなど吹き飛ばして やり遂げることができるのです。 しかし、そこからの道のりも決して平坦ではありませんでした。 度重なる練習やレース中の事故で 延べ五十本にも及ぶ骨折に見舞われましたが、 そこから再起しました。 一番大きな怪我は頸椎の骨折でした。 「もう駄目だ」、何回も何回も思いました。 やめるべきか、再起すべきか。 もし再度落車すれば半身不随の可能性もある。 悩みに悩みましたが、再起の道を選びました。 心の支えになったのが須永博士さんの詩でした。 「“もうだめだ” そこから人生が はじまるのです そこから 本当の自分を だしきって ゆくのです そこから 人間這いあがって ゆくのです “もう駄目だ” そこからもっともっと すごい強い自分をつくって ゆくのです」 苦しい時、本当の自分が姿を現します。 そこで駄目になるのも自分、 もっと凄い自分をつくっていくのも自分。 そこから本当の人生が始まるのです。 |
2013/07/17 |
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