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かたよらずに生きる 臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さんは 「坐禅は心を空っぽにする修行である」と説かれます。 〈横田〉 自分中心なわがままな物の見方が執着を生みだし、 争いを起こし、苦しみの原因になってしまう。 そのように様々な思いや認識で頭の中が一杯になってしまう。 五祖弘忍(ごそぐにん/601~674)という禅僧は、 迷っている人の頭はゴミで一杯になった部屋のようであり、 仏の心は、ゴミがすべて片づいて 広々とした部屋のようだと譬(たと)えられた。 同じ部屋でも物にあふれて散らかっていては狭い。 現代人の多くがかかっている病は、 たくさんの物を抱え込んで狭くなったら、 なお部屋を広げれば良いと考えるところにある。 しかしそれは無理である。部屋を広くするには、 物を片づけて、不要なものを捨て去ることにある。 知識を詰めこむことばかりして、 頭が一杯になっていないだろうか。 様々な思いや感情が一杯になってあふれてはいないだろうか。 『般若心経』では、まずお互いの心を空っぽにしようと説く。 坐禅をするのは心を空っぽにする修行である。 五蘊(ごうん/色・受・想・行・識)を空っぽにする、 眼で外のものを見ない、耳で外の音を聞かないように、 好きだ嫌いだなどと判断をせず、ただ聞こえてくるに任せる。 心でもあれこれ考え事をしないようにと言うのだが、 考えるなとは難しいので、 静かに呼吸をしていることに意識を集中する。 鼻から息が出ている、 鼻から静かに入っていることだけを見つめる。 それをただ繰り返すと、だんだん心が空っぽになってくる。 すると、ちょうど心が恰も鏡のように澄んでくる。 鏡というのは中に映像がない、空であり、 空であるからこそ、何でも映る。 静かに坐っていると、逆に何でもきれいに心に映ってくる。 『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は、 『大般若経』600巻の内容を凝縮したものであると言われるので、 短い経典だが、内容は簡単ではない。 それを、奈良の薬師寺の高田好胤(たかだ・こういん)和上は、 何回も何回も『般若心経』を講義されて、その心を、 「かたよらない心、こだわらない心、 とらわれない心、ひろく、ひろく、もっとひろく、 これが般若心経、空の心なり」 と喝破された。 |
2022.07.28 |
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