過去の一語履歴を見ることが出来ます。
息子の洋服地で人形をつくってほしい 東京都調布市で、「さくら着物工房」を主宰する 鈴木富佐江さんはいま84歳。 戦後の混乱期、満州から日本に家族で引き揚げてきたお一人です。 (鈴木) 敗戦を迎えると、 私たちは父がすぐに帰ってくると大喜びしていました。 ところが、8月9日にはソ連が不可侵条約を破って満州に侵攻し、 日本人は命からがらの逃避行が始まりました。 8月20日頃、ロシア人たちは撫順の街へ凱旋してきて 建物の接収や傍若無人な暴行をするようになるのです。 私の家も物色され父のカメラと時計がなくなっていたそうです。 8月末には北部から逃避行の避難民が撫順に到着、 収容のために学校などあらゆる施設が使われ、 我が家にも三組の家族を収容することになりました。 驚いたのは、てっきり男だと思っていた人が お風呂に入って母の洋服で身繕いをすると、 若くてきれいなお姉さんだったことです。 お姉さんは東京の女子大生、 夏休みで開業医のご両親のもとに帰省していらしたんですね。 ある日、おばさまがつくったカステラを闇市で売るというので、 9歳の私もお姉さんにつくってもらったお人形を抱いて 一緒について行きました。 ところが、カステラは売れずに私のお人形が大注目を集めるのです。 戦争で「贅沢は敵、玩具は贅沢品」と言われて、 可愛いものに皆飢えていましたからね。 お姉さんは近所の人たちにも手伝ってもらい 早速お人形づくりを始めると、 闇市で飛ぶように売れました。 お姉さんは徹夜をしてつくったお人形を売ったお金を 母の薬代に充ててくださいましたね。 ある時、やつれた若いおばさまがやってきて 「死んだ息子の洋服地で目を瞑った人形をつくってほしい」と。 それを聞いたお姉さんが「目を瞑ったお人形をつくるなんて……」 と大粒の涙を流す姿はいまも忘れられません。 おばさまはできあがった人形を、 まるで生きている赤ちゃんのように抱き締めていました。 そんなおばさまを見てお姉さんはお金もいただかず、 優しく励ましていました。 そのお姉さんは日本の地を踏むことなく、 収容所に行って伝染病で亡くなるんです。 お姉さんと日本で再会が叶わなかったことは いまでも涙がこみあげます。 私が高校時代からボランティアに力を入れるようになった原点は、 お姉さんの奉仕の心、優しさの影響が大きいですね。 |
2021.06.08 |
〒979-0154
福島県いわき市沼部町鹿野43
Mail infous@kushida-web.com
TEL 0246-65-2311
FAX 0246-65-2313
定休日:土曜日・日曜日