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      次代に輝く住まいを創る

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〒971-8134 福島県いわき市鹿島町飯田字八合22

一語履歴WORD vol.110

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一語履歴 vol.110
日本のホテル御三家の一つ...
一語履歴 vol.109
史上初5連覇という...
一語履歴 vol.108
伸びる人の条件...
一語履歴 vol.107
先繰り機転...
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若者よ...
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奇跡の女形...
一語履歴 vol.102
涙の種はいつか...
一語履歴 vol.101
勝利にひそむ運...
日本のホテル御三家の一つと称される
ホテルオークラ東京。

出世街道とは言い難い配属先でスタートを切り、
そこから同ホテルの社長兼総支配人にまで
上り詰めたのが清原當博さんです。

 「その姿は必ず誰かがどこかで見ていてくれる」
        
   清原當博(ホテルオークラ東京会長)
   
10年間も一つの部署にいるのだから、
この先もずっと料飲部門でやっていくのだろう。

そう感じていた矢先、
営業部へ異動になった。

聞くと、あるトップセールスマンが
事故で急死してしまったのだという。

その後継者として、
なぜか私が任命されたのだ。

それまでの守りの仕事から一転して
攻めの仕事に変わった。

もちろん経験はゼロ。

突然の出来事だったため、
引き継ぎの資料も情報もほとんどない。

ただ企業名だけを与えられ、

「とにかく外回りして
 自分でリストをつくりなさい」

と丸投げされた。

「何で10年選手の俺が、
 いまさら全然違う部署に異動するのか」

と普通なら違和感を覚えてしまうだろう。

しかし私は、これはまたとないチャンスだと捉え、
がむしゃらに企業を訪問していった。

最初の担当は外資系企業だった。

その多くが土日休みで、
月曜から金曜はフル稼働。

当時は外資系の大手金融機関等が
日本に進出してきた頃で、
連日のようにパーティーが開かれていた。

そのため、右も左も分からない状態だったが、
次第に宴会や宿泊の受注を獲得することができるようになった。

すると、今度は

「外資だけではなくて芸道も担当してくれ」

と、声が掛かった。

これは茶道や華道、日本舞踊などの会合を承るもので、
土日がメインの仕事だ。

平日は外資担当、土日は芸道担当と二足の草鞋を履き、
休日も取れない状況の中で数年間働いた。

それでも体力的にきついと感じることはなく、
むしろ掛けてくださる期待に応えたいという一心で燃え立っていた。

そうやって一所懸命打ち込んでいくことで、
次々と新しい仕事を任せていただけるようになった。

この時、攻めと守りの両輪を経験できたことが
財産となっていることは間違いない。

ただし、それは自分から手を挙げて
やらせてもらえるものでもなければ、
誰もが経験できることではないだろう。

「いま目の前にある仕事、与えられた役割を一所懸命、
 必死に真摯に取り組んでいれば、
 その姿は必ず誰かがどこかで見ていてくれる」

これは私の実感であり、
真理であると自負している。
 
2014/09/09
国内初の万年筆や筆ペンの製造販売を手掛ける
セーラー万年筆。

経営の危機に立たされていた同社を
V字回復させたのが中島義雄社長です。

 「成功の反対は失敗ではなく、何もしないこと」
        
    中島義雄(セーラー万年筆社長)
   
「セーラー万年筆という歴史ある素晴らしい会社があるのだが、
 どうも経営状況が思わしくない。
 君の智慧と経験を生かして、経営再建を手伝ってくれないか」

コンサルティング会社の知人から、
そう声を掛けていただいたのは2009年、67歳の時でした。

その前年に中堅の電機メーカー・船井電機の副社長を退任し、
自由な立場で経営相談などに応じていた私ですが、
文房具業界は全くの素人。

ただ、若い頃から万年筆の愛用者であったこと、
文化的な雰囲気に惹かれたこともあって、
「面白そうだな」と、二つ返事で引き受けたのです。

ところが、実際に常務として入社してみると、
一筋縄ではいかないことが分かりました。

セーラー万年筆は創業1911年、
国内初の万年筆や筆ペンの製造販売を手掛けてきた老舗です。

しかし、少子化や電子機器の普及によって
市場は縮小の一途を辿っており、
売り上げ、利益ともにどんどん悪化している状態でした。

そして、歴史ある企業によくあるように、
経営陣は20年近くも同じ顔ぶれで、
社員や職人たちにも新しい発想を生み出そうという
気風があまり感じられませんでした。

そのような最中、創業100周年を前にして
当時の社長が病に倒れ、急遽退任。

思いがけず、私に経営のバトンが
回ってくることになったのでした。

強い危機意識のもと、私はまず役員一人ひとりと話をして
若い人材と交代してもらうことから着手。

同時に不採算の製品をラインナップから外す
試みも進めていきました。

そして、将来の成長の種を蒔くため、
新製品の開拓にも挑戦。

長い歴史と伝統に裏打ちされた技術を
他の分野に生かさない手はありません。

私は失敗を恐れず、自動的に音声を読み上げてくれる
「音声ペン」などの新商品開発にも積極的に取り組んでいったのです。

改革の成果が本格的に現れるのはまだこれからですが、
現在の売り上げが前年度比2割増の約60億円。

昨年末に実施した大型増資の効果も見込むと、
今年度は営業黒字達成の現実的な展望を描けるまでになりました。

とにかく社長就任以来、
私が絶えず社員たちに語り掛けてきたことは、
「七転び八起き」の精神で積極的に行動しようということでした。

何度失敗しようとも挫けることなく、
一所懸命行動し続けていれば、
必ず善き縁に恵まれ、新しい道が拓けていく――。

「成功の反対は失敗ではなく、
 何もしないこと」

という強い思いが私の中には常にあったのです。
 
2014/09/08

  「どん底の人生を変えた一輪の椿との出逢い」
        
     片岡鶴太郎(俳優・画家)
   
鈴木 以前、鶴太郎さんとお会いした時、
   画家になるきっかけとなった一輪の椿の話を
   聞かせていただいたじゃありませんか。

あの話は感動的で、折に触れて思い出すんです。
きょうはぜひ、鶴太郎さんご自身がどういう夢を持って
歩んでこられたかをお聞かせいただけませんか。

片岡 僕の場合、子供の頃に好きな道が見つかったので、
   高校を出ると迷わず師匠に弟子入りして芸人になりました。

お笑いの世界ではある程度、名前が知られるようになりましたが、
30歳くらいになると、子供の頃から好きだったボクシングを
どうしてもやっておきたいという思いが湧いてきましてね。

プロライセンスを取れるのが33歳までだったものですから、
32歳の時、この1年間で肉体と精神をそぎ落とし、
もう一度、人生を立て直そうと決意したんです。

それで、ちょうどボクサーとしてのライセンスを取ったあたりから、
役者のほうに少しずつ転向を図るようになりました。

というのも、物まねだけだと限界があるし、
せっかく何かに扮するのなら人間の不条理だとか、喜怒哀楽だとか、
そういうものが表現できる役者になりたいと考えたんです。

鈴木 そして、絵の道に進まれるきっかけが椿だった。

片岡 ええ。ちょうど40歳になる少し前くらいから、
   仕事も過渡期かなと感じるようになっていたんです。

表現しようのない心の焦りというのか、
朝起きた時に鉛をのんだような重たさがあるんですね。

とても切なかったり悲しかったりするんだけど、
その原因が自分でも分からない。
鬱々とした日が続いていました。

2月の寒い朝でしたけれども、
朝5時にマネジャーが迎えに来て、
玄関を出るとふっと何か後ろで気配がして、
見たら赤い花だったんです。

それが椿という名前だとは知らないくらい、
それまでの僕は花に疎い男でした。

だけど、その時は、

「うわー、こんなに朝早く誰も見ていないのに、
 よく君咲いているね」

と思わず語り掛けていました。

寒さの中、凜として咲いている椿の姿に
息が詰まるほどの感銘を受けたんです。

こんなにも僕を感動させてくれるこの椿を
何とか表現できないかと考えました。

だけど、役者として椿を演じろと言われてもそれは無理だし、
音楽や詩の才能もない。

その時、心の中で、

「絵だな、絵だな」

という声が湧いてきて、
それに突き動かされたんですね。

鈴木 それまでにも絵をお描きになっていたのですか。

片岡 まともに描いたことなんかありませんよ(笑)。

だけど、これはボクシングを始めた時もそうでしたが、
人生の転機を迎えた時、僕の中にいる“腹の主”が

「おまえはこれをやるんだ」

と激しく突き動かすんです。

そうしたら

「そうですか。じゃあ分かりました」

と言う他ない(笑)。

すぐに文房具屋さんに行って道具を取り揃えて
椿を描いてみたんですが、そりゃ酷いものでした。

「やっぱり駄目だな」と
呆れるくらい稚拙だったんです。

普通なら撤退するところでしょうが、
もしこれを手放したらまた鉛をのむような毎日が始まるかと思うと、
絵にすがる他ありませんでした。

それにしても出会いとは不思議ですね。
その頃僕は、タモリさんと月に1回、
銀座に飲みに行っていたんですけれども、
タモリさんが、

「鶴ちゃんね、あそこに座って飲んでいる人は
 挿絵とか番組のタイトルバックなんか描いている
 画家の村上豊先生なんだけどね」

と言うんです。

僕、画家と称される人と
こんなに近くになるのは初めてでした。

これ、偶然と思えないでしょう。

「ぜひ紹介してください」と言って
3人で飲んだんですけれども、
この村上先生との出会いがあったから、
きょうまで絵を続けてこられたと思っています。

初めてお会いした時、

「先生、絵が上手くなきゃ
 画家になれないですよね」

とお聞きしたら、

「いや、そんなことはないですよ。
 あなた方の商売だってそうでしょう。
 演技ばかり上手い役者よりも、
 下手でもその人物になりきっている役者のほうが
 よっぽど説得力がある。
 私はそういう役者が好きですよ」と。

この言葉には絵を描く上で
随分救われてきました。
 
2014/09/06

日本の産業界をリードし、
世界有数の一流企業へと成長したトヨタ自動車。

その歴史は、実現不可能と思われた夢への
挑戦の軌跡でした。

   「現場力の鍛え方“なぜを5回繰り返せ”」

    張富士夫(トヨタ自動車名誉会長)

福地 張さんはお若い頃、どういう思いで
   仕事に向き合っておられましたか。

張 私は学生時代に剣道ばかりであまり勉強を
  していなかったものですから、何事も経験と考えて、
  人が嫌がる仕事でも進んで引き受けることを心掛けていました。

そうすると、どんどん自分のところに
仕事が集まってくるようになるんですね。

会社も急成長を遂げていましたから、
やることはいくらでもあって、非常にやりがいがありました。

入社してからずっと総務や生産管理の仕事を手掛けていたんですが、
7年くらい経って現場の改善部門に異動することになりました。

大野耐一さんという常務が
「あいつを入れろ」と言ったらしいんです。

福地 大野耐一さんといえば、
   トヨタ生産方式を確立された有名な方ですね。

張 はい。事務屋の私がそういう人の下で
現場の改善などできるわけないと思いまして、
上司に断ってもらおうとしたんですが、
大野さんは「そんなことは関係ない」と
全然相手にしてくれなかったそうです。

結局それから15年、大野さんの下で仕事をしたわけですが、
いま考えると本当に掛け替えのない勉強をさせてもらったと感謝しています。

福地 大野さんの下での仕事はいかがでしたか。

張 あの時代の人というのは、
  懇切丁寧に教えてくれませんからね。

「寝る間も惜しんで考えろ」
「必死になれば知恵は出る」

などと怒鳴られながら、
一所懸命自分で仕事を覚えるしかありませんでした。

そのうち、問題点を見つけるのは
事務屋も技術屋も関係ないことが分かってきました。

実際に直す時には専門家を呼んで
やってもらえばいいわけですしね。

大野さんは随分怖がられていましたから、
周囲から「よくあんなところで我慢できますね」と言われたものです。

しかし大声で怒鳴られて羽目板に突き飛ばされる剣道に比べれば、
会社では怒鳴られるだけで、叩かれることも突き飛ばされることもないから、
大したことはないんです(笑)。

そんなことよりも、トヨタ生産方式とも称される
多品種少量生産のものづくりを確立した
偉大な人の傍で仕事ができるというのは、
何物にも替え難い貴重な機会でした。

大野さんがつくり上げられたのは、産業革命で欧米が確立した
大量高速生産方式以来の画期的なシステムであって、
ノーベル賞にも値する業績だと言われる学者の方もいらっしゃいます。

福地 日本が世界に誇る生産システムですね。

張 大野さんは豊田喜一郎さんの、
  ジャスト・イン・タイムのものづくりを開発せよ、
  3年でビッグ3に追い付き追い越せという号令を受け、
  最初はこんな理屈に合わないバカなことをと総すかんを食らいながら、
  歯を食いしばって己の信ずるところを一つひとつ積み上げてきたわけです。

その生き方がすごく心に響くんですね。

私はその背中を見ては、
自分も負けちゃいかんなと心を奮い立たせてきました。

福地 大野さんの言葉で特に印象に残っているものはありますか。

張 最初に教わった「なぜを5回繰り返せ」という言葉は、
  私のビジネス人生を貫く指針となりました。

なぜこうなっているのかと常に疑問を持て。
しかし1回の「なぜ」だけでは中途半端になる。
なぜそうなったのかと5回繰り返せば本当の原因が分かるぞと。

例えば、油圧不足で部品が不良になった。
その理由はネジが緩んで油が漏れたためだとすると、
普通はネジを締めて終わりだと思うんですね。

ところが大野さんは決してそこで終わらずに、
なぜ緩んだんだと。

機械が振動しているからですと言うと、
なぜ機械が振動するのだと追求していくんです。

現象の裏には原因がある、
その原因の後ろに真因がある。

だから真因に辿り着くには最低5回くらいのなぜを
繰り返さなければならないというわけです。

これは私が社長になってからも、
うるさいくらいに繰り返してきました。

製造現場の人間ばかりでなく、全社員にそうやって
ものを考える癖を身につけさせたいと考えたからです。

アメリカではトヨタの5Wは
全部「WHY?」だと言いました。
 
2014/09/04

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