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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.100

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一語履歴 vol.100
重度の脳性麻痺の少年が...
一語履歴 vol.099
おまえは先生にはなれん...
一語履歴 vol.098
一生修行...
一語履歴 vol.097
小学2年生の長男を...
一語履歴 vol.096
苦しい時こそ、目の前にチャンスがあり...
一語履歴 vol.095
よそがやらないことをやる...
一語履歴 vol.094
僕が看取った患者さん...
一語履歴 vol.093
13年踏まれて咲いた雑草の花...
一語履歴 vol.092
社会の荒みをなくしたい...
一語履歴 vol.091
おいしい酒...
重度の脳性マヒの少年が、15年という短い生涯の中で
たった一篇、命を絞るようにして書き残した詩をご紹介させていただきます。


ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん

ぼくが生まれて  ごめんなさい
ぼくを背負う  かあさんの
細いうなじに  ぼくはいう

ぼくさえ  生まれなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね

大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも

「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に  泣くことも
ぼくさえ  生まれなかったら

ありがとう  おかあさん
ありがとう  おかあさん

おかあさんが いるかぎり
ぼくは生きていくのです。

脳性マヒを  生きていく
やさしさこそが 大切で

悲しさこそが 美しい
そんな  人の生き方を
教えてくれた  おかあさん

おかあさん
あなたがそこに  いるかぎり


生まれた時から重度の脳性マヒで、全身が不自由、口も利けないやっちゃんが、
いのちのたけを託して作った詩です。

障害の程度の軽い子は、自分で詩を書くことができます。
文字が書けない子でも、手足の指や口を使って
電動タイプを打つことができます。

しかし、やっちゃんのように重度のこの場合は、
先生である私が抱きしめて、
やっちゃんが言いたい言葉だったらウインク、
ノーの時は舌をだすという
気の遠くなるような作業を繰り返してやっと前半部分ができた時、
やっちゃんのお母さんに見てもらいました。

読み終えてもお母さんは無言でした。

ただ目頭を押さえて、立ちつくし、
「やっちゃんが、これを・・・」
と、かすかに言われたように思います。

そのせり上がる思いが私にも伝わってきました。

「私の息子よ」
と呼びかけたお母さんの詩が届いたのは、すぐ翌日のことです。

今度は私が立ちつくしました。


わたしの息子よ  ゆるしてね
わたしのむすこよ  ゆるしてね

このかあさんを  ゆるしておくれ

お前が脳性マヒと知ったとき
ああごめんなさいと  泣きました

いっぱいいっぱい 泣きました

いつまでたっても歩けない
お前を背負って歩くとき
肩にくいこむ重さより 
 
「歩きたかろうね」と 母ごころ
「重くはない」と聞いている
あなたの心が せつなくて

わたしの息子よ  ありがとう
ありがとう  息子よ
あなたのすがたを見守って
お母さんは 生きていく
悲しいまでの がんばりと
人をいたわるほほえみの
その笑顔で  生きている
脳性マヒの  わが息子
そこに あなたがいるかぎり
 
2014/07/05
歴代首相をはじめ、世界中のVIPが
絶大な信頼を寄せる通訳者がいます。

長井鞠子さん、71歳。

日本初の通訳会社サイマル・インターナショナルに所属し、
日本における女性会議通訳者としての草分けとして、
半世紀近くにわたり第一線に立ち続けています。

発言を聞き、理解し、分析し、翻訳し、発声する。
このプロセスを僅か1~2秒の間に行う。

その同時通訳の仕事を
長井さんは「真剣勝負、格闘技です」と語ります。

   「成長の秘訣は“悔しさをバネに”」

      長井鞠子(会議通訳者)

通訳会社っていまはすごくたくさんあるんですけど、
当時は数社しかなかったですし、
女性でフルに働いている通訳者は
本当に数えるほどしかいませんでした。

だから、仕事は切れ目なく
どんどん来るわけですよ、下手なのに。

いま振り返ると、最初の頃は
本当にいい加減な準備しかしていませんでした。
能天気で独身で遊びたい盛りでしたから。

あのような準備をいまの若い通訳者がしていたら、
すぐに仕事が来なくなると思います。

そんな中で村松(サイマルの創業者)は
ずいぶん厳しく指導してくれました。

私が何か変な訳を言うと、
それを紙に書いて「×」、正しい訳を書いて「○」、
そんなメモをたくさん渡されましたね。

もう本当に悔しい思いをしましたよ。

ただ、その時に言われたことは
2度と間違えないように心掛けました。
やっぱり悔しい分だけ記憶に残るんです。

――悔しさをバネにされた。

私は負けず嫌いなので人に批判されるとか
ダメ出しを食らうのがあまり好きじゃないんですよ。

決定的だったのは通訳者になって
2、3年経った頃でした。

ある会議の同時通訳を終えてバスに乗っていた時、
前方から

「きょうの女の通訳、何言っているか
 ちっとも分からなかったわよね」

という女性の声が聞こえてきたんです。

その日は、先輩の男性通訳2人と私の3人でやっていましたので、
私しかいないんですよ。これはグサッと来ましたね。

そういう痛い目に何度も遭ううちに、
私の負けじ魂に火がついたんです。

こんな甘い準備ではダメだと。

それからですね、
真面目に取り組むようになったのは。

事前にいただくレジュメや資料を徹底的に読み込んで、
分からない単語は書き出して単語帳をつくり、
分からないことはクライアントに問い合わせる。

そういう準備をおさおさ怠りなくしていきました。

で、場数を踏んでくると、
ちゃんと準備をした時にはいい結果が出る、
逆に準備が甘かった時にはよくない結果になってしまう
というのがだんだん見えてくるようになったんです。
 
2014/07/03

昨年、史上最高齢の80歳で
世界の最高峰エベレスト登頂に成功し、

現在は次なる夢、

「85歳でヒマラヤの8201メートルの山に登り、
 山頂からスキー滑降する」

を実現するため、日々トレーニングを積んでいる三浦雄一郎さん。

そんな三浦さんは50代の頃、燃え尽き症候群に陥り、
10年近く食べ放題、飲み放題の不摂生な生活を続け、
メタボリックな中年と化しました。

そこから再び「エベレストに登る」という夢を叶えるため、
65歳の時、地道なトレーニングを開始。

年齢そして心臓病と闘いながら、
死に直結する危険をも顧みず3度目の登頂を果たしたのです。

  「いくつになっても諦めなければ夢は叶う」

      三浦雄一郎(冒険家)

2003年5月、私は目標としていた
70歳でのエベレスト登頂に成功しました。

頂上からの素晴らしい眺めに感動した私は、
再びここに戻ってきたいと思いました。

一方で、私の心臓はかなりのダメージを受けていました。

登頂の途上で不整脈と心房細動を発症し、
命の危険にも直面しました。

心臓の専門医には引退を勧められましたが、
エベレストへの思いは断ちがたく、
2度にわたって心臓の手術を受け、
2008年5月に75歳でのエベレスト再登頂に成功したのです。

2度目の登頂を果たした私は、
帰ってくるなり

「今度は80歳でエベレストに行きたい」

と口にしました。

家族は猛反対です。
既に2度の心臓手術を受けた身です。

80歳となると、果たして心臓がもつかどうかと
家族は心配したのです。

おまけに2009年にはスキーをしていて
骨盤と大腿骨の付け根などを骨折し、
再起不能になる恐れもありました。

しかし、私の挑戦意欲は衰えませんでした。

強く反対をする家族には

「エベレストに行かせてくれないなら家出する!」

と決然と言い放ち、何とか説得に成功しました。

3度目の出発までに
私は2度の心臓手術を繰り返しました。

まさに80歳のエベレストは
命懸けの挑戦になったわけですが、
諦める気持ちは微塵もありませんでした。

私がそういう強い気持ちを持てたのは、
父を見ていたからかもしれません。

父は90歳から97歳までの間に
スキーで転んで3回骨折しています。

普通であれば90を過ぎてスキーで骨を折ったら

「俺ももう年だ。危ないことはやめよう」

と考えるところです。

ところが、周りがいくら

「危険だからやめなさい」

といっても父は聞きませんでした。

スキーをしたいという一心で、
入院から10日ほど経つと、
折れた右足にギプスをしたまま左足の屈伸運動を始めたり、
バーベルを上げたり、食べ物の工夫をしたりして、
奇跡的に骨をくっつけてしまいました。

最後に骨折したのは97歳の時でしたが、
これも治して99歳でモンブランを滑ったのです。

いくつになっても諦めなければ
夢は叶うものなんだと思います。

夢が叶わないのは、
どこかで諦めてしまうからなのでしょう。

父は101歳で天寿を全うしましたが、
最後まで大好きなスキーを続けました。

サインを求められると、好んでこう書いていました。

「探求一筋」

人間、現状維持でいいのだと思ってしまうと、
そこで成長が止まってしまいます。

しかし、父は最後まで成長し続けていました。

「もうこれでいい」という気持ちには
決してなりませんでした。

現状維持を拒み、昨日の自分を超えようとしていました。

父は「諦める」という言葉を知らない人でした。

そうした父の生き方は、
私にとっての最高の手本となっているのです。
 
2014/07/02

「秘すれば花」
「初心忘るべからず」

という言葉は皆さん
耳にされたことがあるでしょう。

これらの名言を後世に遺したのは
能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)。

なんと今から約750年前、
室町時代に活躍した人物で、
人の生きる道にも通じる芸の極意を
数多く説いています。

生涯を懸けて芸を高め続けた世阿弥の言葉に学ぶ
「まことの花を咲かせる生き方」とは――。

 「世阿弥の言葉に学ぶ“まことの花を咲かせる生き方”」

    西野春雄(法政大学名誉教授)

世阿弥は疾風怒濤の時代を生き、
同業者の中には、観客や支援者から評判を得ようとして、
ともすれば芸が乱れがちな者もありました。

そうした風潮に危機感を抱いた世阿弥は、
独自の芸術論を展開し、それを自ら実践することを通じて
芸の本道を貫きました。

世阿弥がその80余年の生涯に書き残した芸術論は、
世阿弥の芸談を息子の元能が聞き書きした
『世子六十以後申楽談儀』も含め、21部を数えます。

そこに記された言葉が、舞台芸術の枠を超え、
人生の指針をも与えてくれるのは、
彼が様々な困難を乗り越えて己の芸を高め続けたこと、
そして懸命に生き続けたことと無縁ではないでしょう。

ここで世阿弥の珠玉の言葉をいくつかご紹介します。

◇「初心忘るべからず」

世阿弥の言葉の中でも最も有名な名言です。

しかし若干誤解があるようで、現代では、

「物事を始めたときの気持ちを忘れるな」

という意味で使われることが多いようです。

世阿弥の説く「初心」は、芸の道に入って
修業を積んでいる段階での未熟さのことです。

しかも芸能者として未熟な年齢の者だけにあるのではなく、
各年齢に相応しい芸を修得した者にもあり、
幾度も積み重ねられるものです。

一生涯積み重ねてきた「初心」を忘れないために稽古を貫くこと、
そしてそれを子孫に伝えていくことが世阿弥の「初心」論なのです。

◇「稽古は強かれ、情識はなかれ、となり」

稽古はしっかり行い、
慢心による凝り固まった心を持ってはならない。

稽古とは、ただ練習をすることだけを指すものではありません。

芸を志す者にとっては舞台に立つことはもちろん、
日常のすべてを稽古と心得ることが大事でしょう。

そして情識とは頑なな心を意味します。

私は長年学生を指導してきましたが、
伸びる学生は情識とは反対に皆素直な心を持っていることを実感しています。

世阿弥は、

「昔はかくとばかり思うべからず」

とも説き、昔はこうやったのだからと
それに固執し過ぎることを戒めてもいます。

大切なのはオリジナルを守ることではありません。

その時々に観客が望むものに柔軟に応えて言葉を変え、
曲を改めてきたからこそ、世阿弥の能は長く人々に親しまれたともいえます。

◇「離見(りけん)の見(けん)にて見るところは、
  すなわち、見所(けんじょ)同心の見なり」

「離見」とは自分自身から離れた視点を持つこと。

つまり離見の見で見るということは、
すなわち観客と同じ心で見るということである。

役者自身が離見の見を獲得し、
自身の姿を客観的に見るためには、
観客と同じ心、つまり見所同心を持たなければなりません。

それによって自分自身から距離を取り、
客観的な視座を手に入れる。

加えて、肉眼では捉えることのできない姿を
「心の眼」で見ることが必要だとも説いています。

◇「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。
  人、人にあらず、知るをもて人とす」

芸の家とは、家が続いているから芸の家ではない。
芸を継承しているから芸の家である。

その家の者だから芸の継承者とはいえない。
その芸を理解している人が芸の家の人なのである。

芸道では、その芸を後継者に伝えていくことも極めて重要です。

世阿弥は、たとえ一人しかいない子であっても、
実力のない者にはその大事を伝えることはない、
と実力主義を主張しています。
 
2014/06/30

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