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      次代に輝く住まいを創る

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〒971-8134 福島県いわき市鹿島町飯田字八合22

一語履歴WORD vol.106

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69回目の「終戦の日」となる今日。

戦争を知らない世代が多くなった今ですが、
尊い命の犠牲のうえに今の平和な日本があるという事を
私たちは決して忘れてはいけない・・・

という思いは、当時「不沈戦艦」と言われていた大和に乗り組んだ
八杉康夫さんが語られる以下の言葉に出会った時
一層強いものとなりました。

「若者よ、君たちが生きるきょうという日は
  死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」

乗組員三千余名。
全長263m、甲板から艦橋の高さ24mと、
昭和16年当時、最先端技術を結集し極秘裏に建造された
世界最大の戦艦「大和」。

戦艦大和の乗組員として、当時17歳だった八杉さんは、
その沈没を体験、上官の命と引き換えに一命を取り留めたことに
語り部としてその歴史の真実を伝え続ける。

第一波、第二波と攻撃を受けるうち、
大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。

なおも攻撃が続けられ、魚雷が的中した時は
震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
 
次第に船は傾いていきます。
砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。
それでも、戦闘中は命令がない限り持ち場を離れることはできません。

その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
これが事実上「逃げろ」という意味です。
 
すでに大和は50度ほど傾いていましたが、この時初めて、
「大和は沈没するのか」と思いました。

それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。

もう海に飛び込むしかない。
そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。

私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
自分の腹を掻っ捌いたのです。
噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
 
船はますます傾斜がきつくなっていきました。
90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
 
飛び込んだのも束の間、
沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。
その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
「生きるための数々の方策」です。
 
海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、
ひたすら「生きる」ことでした。
海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない・・・。
 
陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では「お国のために死ね、
天皇陛下のために死ね」などと言われたことは一度もありません。

ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
 
だからこの時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。
しかし、どんどん巻き込まれ、あまりの水圧と酸欠で次第に
意識が薄れていきます。
その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
戦艦大和が大爆破したのです。

そこで私の記憶はなくなりました。

気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。

しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
「助けてくれ!」と叫んだと同時に、なんともいえない恥ずかしさが
込み上げてきました。
 
この期に及んで情けない、
誰にも聞かれてなければいいが・・・
 
すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。

そう思って身構える私に、彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」
と言って、自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
そして、なおもこう言ったのです。

「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、
 頑張って生きろ」

4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
 
大和を守れなかったという思いから、死を以て責任を取られたのでしょう。
高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。

乗組員三千余名のうち、生き残ったのはわずか276名・・・

その後は「自分だけが助かってしまった」という罪悪感に苛まれ、
人に会う事を避けるようになった八杉さんでしたが、
大和のこと、そして川崎高射長のことを、忘れたことはなかったと話される八杉さんに
ある日思いがけない出会いがありました。

昭和60年のことです。
いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から喫茶店に呼び出されました。
彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、こう言ったのです。

「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」

驚いたなんていうものじゃありません。
戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、
厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて・・・

念願叶って佐賀にある高射長の墓前に手を合わせることができましたが、
墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。
 
その時私は50歳を超えていましたが、
自分が31歳だった時を思い返すとただただ恥ずかしい思いがしました。
そして、不思議なことにそれまでの晴天が急に曇天となったかと思うと、
突然の雷雨となり、まるで「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。
 
天皇も国家も関係ない自分の愛する福山を、
そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
不沈戦艦といわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、
そして、敗戦。
 
そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。

最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
現在の学生の姿を見ると明らかに戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。
 
いや、生徒たちだけではない。
間違った教育を受けた人が先生となり、親となって、
地域社会を動かしているのです。 
その元凶は昭和史を学ばないことにあるような気がしてなりません。

自分の両親、祖父母、曾祖父母がどれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
いくら石器時代を学んだところで、真の日本人にはなれるはずがない。
現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、学校の先生ですら
「持ってどうするんですか?」と真顔で聞き返すのですから。
 
よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?
確かに昔も殺しはありました。
しかし、「殺してみたかった」などと、意味もなく殺すことは
考えられませんでした。 
 
真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。
鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば天から降ってくるものではないのです。
 
しかし、1流の国立大学の大学院生ですら、
「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」と平気で言います。
ならば自分で学べと私は言いたい。

自分で学び、考えることなしに、自分の生きる意味が分かるはずがないのです。

人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
大きくなくてもいいのです。
小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
 
戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。

それはいま使命感へと変わりました。
私の一生は私だけの人生ではなく、
生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。
うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。
 
未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、
いつか再び戦友たちに会った時、
「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」
と胸を張りたいと思います。

 八杉康夫 (戦艦大和語り部) 
 
2014/08/15
長年、入園者数が減少し、
存続の瀬戸際に立たされていた
はままつフラワーパークや
あしかがフラワーパークを再建させた
塚本こなみさん。

万事入精の言葉どおり、
目には見えない樹木や物の命を大切にする
日々の仕事の積み重ねが
いま大きな花を咲かせています。

  「感動分岐点を超えた時、人も経営も変わる」

  塚本こなみ(浜松市花みどり振興財団理事長)

――この春、はままつフラワーパークは大変な賑わいだったそうですね。

塚本 今年は浜名湖花博というイベントが、
   当園と静岡県が運営する浜名湖ガーデンパークの2か所で開催されました。

3月から6月までの期間中、
当園は20万人の集客を目標にしていました。

私の計算では35、6万人入ってもらえると嬉しいな、
と考えていたんですが、その期待をさらに上回って
60万人の方にお見えいただいたんです。

これは当園44年の歴史で過去最高です。

――長年、入園者減に苦慮されていたと聞いていますが、
  画期的な数字が出せたのですね。

塚本 はい。園を存続できるかどうかのまさに瀬戸際でしたので、
   予想以上の結果を出せてホッとしているところです。

――再建のために、どのような取り組みをされたのですか。

塚本 私はこの園の再生のために昨年春、
   理事長としてお招きいただいたのですが、

就任以来、お客様が何を求められ、
私どもは何を提供できるかを考え続け、
それを実行してまいりました。

感動分岐点という言葉をご存じでしょうか。

経営用語の損益分岐点と同じように、
このくらいなら感動しないけれども、
それを超える何かを提供すると感動が心の中に染み入る、
という分岐点があるという考えです。

例えば、見たこともない景色や想像を
遙かに超えた場面をご提供するのは、
その分岐点を超えることになるんです。

――どのようなものを提供されましたか。

塚本 ここは30万平方メートルという
東京ドームの7倍に相当する広大な植物園です。

その中には素晴らしい日本庭園があって
1300本もの桜の木が植えられています。

各600メートルの2本の桜並木があり、
春には多くの人で賑わうのですが、
私はその日本庭園や池、水路の周りに
チューリップを50万球ほど配して
桜とチューリップで世界一美しい庭園を造ろうと考えました。

桜といえば青森の弘前公園だとか全国各地に名所がありますし、
チューリップ公園は富山県砺波市などが有名ですが、
日本庭園の美しい風景の中で桜とチューリップが競演する
という演出はここでしかできないと考えたんです。

――そのアイデアが感動分岐点を超えた、と。

塚本 はい。花博開幕直後は
   あまり手応えを感じなかったんですけど、

桜とチューリップが満開を迎えた頃
どっと来園者が伸びて、
シーズンを過ぎた後も、全く減りませんでした。

きっと「はままつフラワーパークはすごい」と
評判が評判を呼んだのだと思います。
 
2014/08/14

建築仕上塗材の分野で
国内シェアナンバーワンを誇り、
アジア市場でも存在感を示すエスケー化研。

創業期から約60年にわたり
その陣頭指揮をとり続けるのが、
藤井實社長、81歳です。

     「求める心が古典を活かす」

      藤井實(エスケー化研社長)

――若くして経営者になられた当時、
  ご苦労はありましたか。

20代の頃はがむしゃらでしたから、
悩むようなことはなかったのですが、
30歳を過ぎたあたりから悩み出しました。

人間というものは、
前に向かって進もうとしたら悩むものですよ。

――というのは?

創業8年目に社名を四国化研工業に改称し、
工場を建設するなど建築用塗料メーカーとして
本格的に歩み始めました。

そうなると仕事で交流する人の幅が広がって、
立派な経営者の方々とお話ししていると、
自分の未熟さというのが透けて見えるわけです。

社員の数が増えていく中、
経営というものを考えた時に果たして
いまの自分でいいのかという思いが芽生えてきました。

――それでどうされましたか。

最初は悩みを払拭したい一心で、
京都のお寺を訪ねて坐禅をやってみました。

お坊さんに随分喝を入れていただきましたが、
その時のご縁で中国の古典に親しむようになったんです。

求める心が強かったので、そのうちに『論語』をはじめ
『孟子』『韓非子』『易経』など、
時間を見つけては何度も読み返しました。

数千年という年月を経て語り継がれてきた学問に触れていく中で、
経営についての悩みは徐々に解消されていきましたね。

――例えばどんな言葉が琴線に触れたのでしょうか。

『易経』にある六十四卦の中に
「地天泰(ちてんたい)」という言葉があるでしょう。

これは地は人民、天は君子、泰は安らぎを表しているのですが、
僕はなぜ「地」が「天」の上にあるのか疑問に思ったんです。

普通ならば「天」が上にくるはずだと。

この三文字が意味するのは、
君子が人民を押し戴くことで安らぎが訪れることだと分かると、
なるほどこれは面白いなと感じたわけです。

会社に置き換えてみると、
社員を大事にせなあかんということでしょう。

当時、会社を組織化して表向きはメーカーとしてやっていましたが、
実際は何から何まで決めるのは全部自分一人。

社員のことをちゃんと考えたことは
ほとんどありませんでした。

これでは将来大をなすのはとても無理だと。

全国的に規模を拡大していくには、
社員と志を一つにしていく必要性を感じたのです。

そこで創業十周年を機に、経営理念や社是、社訓を
打ち出すとともに待遇面でも改善を図りました。

――具体的にはどのような?

当時の幹部には本当の意味で
経営の仲間になってもらわないかんと考えて、
私が100%保有していた持ち株の一部を
彼らに特別賞与として出しました。

もっとも、当時は私の真意を理解できずに、
もてあましている幹部もいたようですけどね(笑)。

一般社員には決算後の6月に
特別利益配分を支給することにしました。

年間の利益を削ってでも
社員に還元しようと決めたのです。

我が社では夏期と冬期の賞与に加えて
6月にも特別賞与がある。

これは創業10周年の時から、
今日までずっと続けてきました。

会社の基盤を固めるには、
社員に喜びがあることが不可欠だと考えたのです。

――「地天泰」の三文字を経営に活かされたわけですね。

古典というものは求める心があって読むから、
それを現実に活かすことができるのだと
私はずっと思ってきましたからね。

もう一つ『易経』の言葉で挙げるとすれば
「山天大畜(さんてんたいちく)」。

これは天に山の如く聳え立つには、
大いなる蓄積をしなければいかんという意味で、
そのためには人材はもちろん、技術力や商品力、信用などを
しっかりと積み上げていく必要があると。

特に経営においては、手元にお金がなければ、
ここぞというところで手が打てないので、
早い段階から無借金経営を標榜してきました。

他にも安岡正篤先生の「六中観(りくちゅうかん)」の一つに
「腹中書あり」とあるように
古典の教えを胸の内に常に留めてきたことが、
自分自身をつくり上げることにも
繋がったのではないかと思いますね。
 
2014/08/14

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