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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.105

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一語履歴 vol.110
なぜ... 110a一輪の椿... 110b成功の反対... 110cその姿は...
一語履歴 vol.109
強味... 109a心の反映... 109b本物の食... 109c史上初5連覇...
一語履歴 vol.108
奇跡の復興... 108a夢を実現... 108b伸びる人の条件...
一語履歴 vol.107
芸道一筋... 107a他人を... 107b腰骨を... 107c先繰り機転...
一語履歴 vol.106
求める心が... 106a感動分岐点... 106b若者よ...
一語履歴 vol.105
明日また... 105aひとりの少女... 105b伸びる人間... 105c一所に懸命...
一語履歴 vol.104
人間力を... 104a中川一政 104b桜となれ... 104c徳を以て...
一語履歴 vol.103
海上自衛隊... 103aこの瞬間... 103b食べたいもの... 103c解釈を変える
一語履歴 vol.102
選手が自立... 102a一燈園 102bヒットアイデア 102c涙の種はいつか...
一語履歴 vol.101
成長の糧... 101aギリギリまで... 101b人間関係の力... 101c運を...
明日また舞台に立つことだけを考えて    
             坂東玉三郎(歌舞伎俳優)

「奇跡の女形」
人は坂東玉三郎さんのことを そう称えます。
今年、5代目坂東玉三郎を襲名して50年――。
半世紀以上にわたって歌舞伎という芸道を磨き続け、
いまや人間国宝にも認定されています。

しかし、そんな坂東玉三郎さんも 梨園(りえん)の出でないばかりか、
小児麻痺の後遺症という身体的ハンディキャップを 抱えていました。

坂東 20歳までは本当に体が弱かったですから、
   いつも「踊れなくなったらどうしよう」
   という思いがありました。

そして舞台を終えると
「ああ、きょうも終えることができた」と。

だからとにかく「明日、また舞台に立つ」。
そのことだけを考えてやってきました。
それはいまも変わらないです。

――遠い未来の目標ではなく、明日の舞台だけを考えて。

坂東 はい。特に私は女形としては大柄だと言われてきましたので、
   小さく見えるように舞台に立ってきました。

これが結構な負担がかかっているようで、
体のメンテナンスをしてすぐに休まなければ、
とても翌日起き上がれない。

だから舞台が終われば真っすぐ家に帰っていました。

よく「玉三郎さんは寄り道もせずに芸道に励まれ……」
とか言われますが、別にこれは美談でも何でもなく(笑)、
必要に迫られてのことです。

他の方のように舞台の後に寄り道したりすることが
できない体だったんです。

その若い時の習慣がいまも続いているだけなんです。

――全神経を一場一場に注いでこられたのですね。

坂東 この一幕、必死で舞台に立つ、
   その繰り返しで今日まできました。

もちろん、それはこれからも続きますが、
冷静に見れば肉体的にはあと10年持たないでしょう。
その見極めはしっかりしないといけないと思っています。

――有名な6代目尾上菊五郎は「まだ足らぬ 踊りおどりて あの世まで」
  という言葉を残していますが、そういう心境ではない?

坂東 「まだ足らぬ」という心境は大いにあります。
   芸道には終わりはありませんから。

ただ、「踊りおどりて あの世まで」という感覚は
私にはないんですね。

6代目さん(菊五郎)はいまの私の年齢の年に、
舞台の最中の眼底出血が元で亡くなったといわれます。

64歳でしたからまだまだ踊れるという感覚を
持っていらしたのでしょう。

しかし、私はこれから先、
お客様の前で踊ったら失礼な時が来るんです。

一人の人間の人生としては、意識がしっかりとしている限り
無限に前進していきたいと思いますが、
俳優としては肉体的にいずれ限界がきます。

そのギリギリのせめぎ合いです。

だから私の場合は……
「まだ足らぬ もがきもがきて あの世まで」という心境ですね(笑)。

――舞台で主役を務めるということは
  それだけきついということですね。

坂東 はい。あとはどれだけ自分で自分の体を騙せるかです。

――でも、その苦の中に楽しみがある?

坂東 いや、楽しみはないです(笑)。

人生って修行なんです。
それぞれが天からいろいろな課題が与えられていますが、
それは全然楽なものではない。

よく「苦楽」といいますが、
そんなちょうどよく50%ずつではないです。

たぶん分量としては「苦楽苦」。
楽があるとすれば1割か2割です。

ただ、幸いなことに苦も楽も定着するものではありません。
一瞬一瞬刻々と変わっていきます。

苦しみの中にフッと楽しみがあったり、
楽しみの中に苦しみがあったり。

――それが人生の本質ですね。

坂東 私は苦を感じたくないの(笑)。
   だから一所懸命になる。

一所懸命になっている時って苦を忘れるんですよね。
苦を忘れるために夢中になる。
そうなれば夢の中ということです。
 
2014.08.06

武家の末裔として生まれ、20代半ばより
武士道や武家の生活文化を学び始め、
現在、執筆や講演活動に東奔西走しています。

  「泣いてすませるのは卑怯者の振る舞いです」

       石川真理子(文筆家)

私の祖母は明治22年、
元米沢藩士の家に生まれました。

生活のために帰農していましたが、
家にはまだ武家の家風が色濃く残っており、
祖母は武家の教えと精神を余さず受け継いで育ちました。

私はその祖母と12歳まで一緒に過ごし、
礼儀作法や言葉遣い、日常生活での行いを
細かく躾けられて育ちました。

祖母には、泣くと必ず叱られました。

特に自分のしでかした失敗は、
泣いたところでどうなるものでもないことを諭されました。

「泣いてすませるというのは、卑怯者の振る舞いなのですよ。
 泣きたいことがあっても、グッと堪えて、
 背中をしゃんと伸ばして対処するようにしてごらん。
 それでこそ強い心が育つのです」

卑怯な振る舞いが絶対に許されないのが武家の習いであり、
女性という弱い立場を盾に、自分の個人的な感情を
涙という形で訴えるのは愚かな行為だというのです。

こういう教えを受けて育っただけに、
「涙は女の武器」という言葉を聞いた時には
大変ショックを受けました。

いまでも、女性が人目も憚らず
泣く姿を見る度に強い違和感を覚えます。

もちろん私にも辛い時は
数え切れないほどありました。

けれどもその辛さを辛抱することで、
人間的な強さが養われたことを実感しています。

「子供がよく風邪をひくのは、
 病気を乗り越えながら体を強くするためでもあるのだよ。
 心の傷の治し方も、傷ついては立ち上がることを
 繰り返しているうちに身についてくる」

経験を積むうち、祖母の言葉が真理であり、
明けない夜はないことを信じられるようになりました。

困難に向かう時には、
いつも祖母の言葉を反芻して自分を鼓舞してきました。

卑怯な振る舞いについては、
いまでも強く印象に残っている思い出があります。

ある時、私が庭を掃除してくださっている
お手伝いさんに対し、

「ここで遊びたいから
 掃除はあとにしてちょうだい」

と言ったのを見た祖母は、すぐに私を呼び、
私の態度をきつく窘めました。

一家のお嬢様に対し弱い立場にあるお手伝いさんに
横柄な態度を取ることは、
卑怯なことだと懇々と諭されたのです。

幼いながらも、自分が酷く悪いことを
してしまったことを痛感しました。

日本の主従関係というのは、主君に対して家臣が
ただ一方的に服従するのではありませんでした。

江戸時代には、自分の家臣のために命を張る藩主もあり、
また貧しい武家はお正月に自分たちの着物を新調する余裕がなくとも、
下男、下女にはちゃんと支度を整えさせていました。

日本ではそういうことは
上に立つ者にとって当たり前だったのです。

また会津の『日新館童子訓』には、
藩の子弟に対し、国の大事を慮り、
藩主をも諫めるべきことが説かれています。

だからこそ会津藩の結束は強固で、
会津戦争の後、藩主であった松平容保は、
自分の命と引き替えに家臣の許しを請うたのです。

昭和天皇もマッカーサーに対して
これと同じことをされています。

いざという時にトップが命を投げ出して
部下を守るのが日本の主従関係なのです。

そういう精神が骨の髄まで染み込んでいた祖母にとって、
私のお手伝いさんに対する態度は
看過できないものだったのでしょう。
 
2014.08.05

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