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      次代に輝く住まいを創る

TEL. 0120-815-711

〒971-8134 福島県いわき市鹿島町飯田字八合22

一語履歴WORD vol.102

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涙の種はいつか...
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勝利にひそむ運...

“90歳の郵便配達おばあちゃん”として
テレビや雑誌などで注目を集めた清水咲栄さん。

今日は咲栄さんが天寿を全うされて
ちょうど丸1年の節目です。

冬になると積雪4メートルを超える長野県の山奥で、
20年にわたり、12月から3月まで、
郵便配達の仕事を毎日欠かさず行っていました。

たとえ吹雪であっても、自分の足で坂を上り、
ソリで滑って下りてくる。

そんな咲栄さんの姿はいつしか
地元でも有名となり、多くの人に元気と笑顔を
与えていったのです。

   「涙の種はいつか喜びの花となる」
        
   清水咲栄(郵便配達おばあちゃん)
      
忘れもしません。
あれは昭和50年12月12日のことでした。

その前日、一番下の娘が会社の休みの日に
涌井の実家へと帰ってきていました。

昼間はとてもいい天気でしたが、
その日の晩に大雪が降ったのです。

朝6時、父ちゃん(咲栄さんの夫)は
長野に帰る娘を駅まで送っていくと言って出ていったまま、
帰らぬ人となってしまいました。

その頃、まだ道路は舗装されておらず、
ガードレールもない。

その上に新雪が積もっていたので、
運転を誤ったのでしょう。

崖から落下し、即死でした。

それから数日間、私は茫然自失。
涙が枯れるまで泣きました。

ただ、幸いにして、
娘は落ちていく途中で車の外へ放り出され、
九死に一生を得ました。

あの時は、娘は運よく助かったのだろうと思っていましたが、
いま考えると、落ちていく瞬間、
父ちゃんがとっさに助手席のドアを開けて、
娘の命を助けてくれたのではないか。
そう思います。

父ちゃんが亡くなった後、
私は無我夢中で生きました。

まだ少し借金が残っていたため、
下を向いてばかりいられなかったのです。

土木作業員として、高さ10メートルの鉄柱の上に立って
ロープを引いたり、車輪を取り付けたりと、
男衆と一緒になって朝早くから夜遅くまで働く日々。

あの時の私は仕事に没頭することで
悲しみを忘れようとしていたのかもしれません。

そうして70歳の時、郵便配達の仕事が
舞い込んできたというわけです。

20年にわたって雪国の郵便配達を続ける中で、
命の危険に直面することが何度かありました。

ある時、配達を終えて歩いていると、
突如としてゴォーッという地鳴りのような音が
聞こえてきました。

振り返ると、山の上から物凄い量の雪が
襲ってきたのです。

私は慌てて逃げましたが、
一瞬のうちに私の背中をかすめて
崖下へと流れ落ちていきました。

あと何秒か遅れていたら、
間違いなく雪崩に巻き込まれていたでしょう。

それだけではありません。

とてつもない暴風雪が吹き荒れていた時には、
どんなに踏ん張っても体が思うように動かず、
どんどん崖のほうへと流されていく。

そして崖まであと2メートルという寸前のところで
ピタッと風が弱まったということもありました。

郵便局の方からは

「吹雪の日は大変だから、
 休んで次の日にすればいいのに」

とよく言われます。

しかし、そんなわけにはいきません。

どんなに凄い吹雪だろうと、
郵便が届くのを楽しみに待っている人たちがいるのですから。

ある方がこう言いました。

「誰かの笑顔を、この山に住む人々に届け、一緒に喜ぶこと。
 誰かの悲しみを、この山に住む人々に伝え、一緒に涙すること。
 それがあなたの仕事」

ですから、今日までの20年、
私は天候を理由に休んだことは一切ありません。

しかし、たったの1日だけ、
どうしても体が言うことを聞かず、
休んだことがありました。

それは一番下の娘が亡くなった日のことです。

そう、父ちゃんが亡くなった時、
奇跡的に一命を取り留めたあの子です。

彼女はあの交通事故の後、
結婚して幸せな家庭を築きましたが、
若くして乳がんを患ってしまったのです。

享年46でした。

やはり親としては自分の娘に先立たれるほど
切ないものはありません。
 
こうして振り返ると、人生というのはいいことよりも
悪いことのほうが多いものなのでしょう。

しかし、四季が巡ってくるように、
厳しい冬の後には必ず春が来ます。

人生という畑に涙の種を蒔けば、
その種がいつか喜びの花を咲かせてくれる。

だからこそ、人生は忍耐と努力に尽きる――。

それが90年の人生を通して得られた実感です。

私がよく言っているのは

「ずくを出して頑張らねか」

ということ。

“ずく”とはこのあたりの方言で、
やる気という意味です。

人生、ずくを出さなければ何もできません。

苦労をともに乗り越えてきた父ちゃんを亡くし、
自分の娘にも先立たれてしまいましたが、
ずく一筋で生きてきたからこそ
いまの私があるのではないでしょうか。

悲しみに浸って泣いてばかりいても
どうしようもない。

どん底まで行ったら、
あとは這い上がるのみです。

一歩一歩踏みしめていけば、
必ず幸せに辿り着く。

本当に一歩、一歩。

そう思います。
 
2014/07/20
日本におけるファッションデザイナーの
草分け的存在である西田武生さん、92歳。

90歳を超えたいまなお、新ブランドを開拓し続け、
我が国のご皇室や海外セレブなど、
各界の一流人を虜にしてやみません。

    「ヒットアイデアを生み出す秘訣」
        
    西田武生(ファッションデザイナー)
   
――これまで美空ひばりさんをはじめ著名な方々や
  秋篠宮妃紀子様のマタニティードレスなども
  デザインされてきましたが、特別なプレッシャーはありましたか。

それはないですね。

ただその時々によって、
ばーっとできる時と全然できない時がありますね。

――全然できない時には、どうやって乗り越えるのでしょうか。

僕の場合は美術館、
そこに行くと一番心が落ち着く。

特に自分が迷っている時には、
そこに飾られている絵画から
現状を打破するヒントをもらいました。

日本はね、この点で非常に恵まれているでしょう。
居ながらにして世界の名画を観ることができるんですから。

新しい企画展があれば僕はすぐに観に行くんです。

――それはいまも続けられているのですか。

そうです。

もうゆっくりしたらと周囲から言われるけど、
そういうわけにはいかない。

デザイナーとして少しでも綺麗な服をつくりたい
という思いがありますからね。

これまで本当にたくさんの婦人服をデザインしてきましたが、
もうこれでいいと思ったことは一度もない。

満足したらそこでもうおしまい。
そこが人生の終点だもんね。

僕にとっての終点はまだ来ていませんよ(笑)。

――ご自身で大切にされてきたことはありますか。

一つは「思いついたらすぐ実行」。
僕は何か頭にパッと閃いたらすぐに実行します。

もう一つは、「深刻がらず、流れに抵抗せず、決めたら実行する」。
これはもう僕の生きる指針のようなものです。

何かに迷っても
軽い気持ちで考えることですね。

芸術家って神経質な人が多い
というイメージがあるでしょう。

僕はね、それは深刻がっているだけ
じゃないかと思いますね。

本当に深刻になってしまったら、
行き詰まってしまうでしょう。

行き詰まりっていうのは一番怖いですからね、
我われのような仕事においては。

僕は40歳で独立して
ブランド「タケオ ニシダ」を立ち上げた後は、
会社経営において厳しい局面に立たされたこともあるし、
大病だって患いましたが、
深刻になるようなことは一度もなかった。

だからすべて乗り越えることができたんです。
 
2014/07/19

京都・山科に一燈園という修養団体があります。
 
 宗教法人ではなく、人間としての生き方を学ぶ修養団体で、
 大正10年(1921)、西田天香さんが家々を回り、便所掃除をし、
 うかつに生きていることをお詫びして生活されたことから始まった集まりです。

 ある日、三上さんはある病院に招かれて講話を行った。

1時間ほど話して院長室に戻ると、院長がいたく感動してお願いがあるという。
 何事ですかと聞くと、院長は切りだした。

「実は私の病院に少年院から預かっている18歳になる結核患者がいます。
 容態は悪くあと10日も持つかという状態です。
 この少年に三上さんの話を聞かせてやりたいのです。
 
 ただ問題なのは、両親も身寄りもなく、非常にひねくれていて、
 三上さんの話を素直に聞いてくれるかどうかはわかりません。

 重体で病室からは一歩も出られないので、こちらから出向くしかないのですが、
 今日のような話をたとえ20分でも30分でも聞かせてやりたいのです。
 少しでも素直な気持ちになってくれれば・・・」

 院長に案内されて行ったところは病院の一番奥にある隔離病棟で、
 5つある個室のうち彼の部屋だけ使われていた。

 げっそり痩せて頬骨が尖り、無精髭を生やした少年の顔は
 黄色く淀んでおり、目の周りが黒ずんでいる。 
 黄疸を併発しているのだろうか。

「おい、こっち向けよ。今日は一晩中看病させてもらうからな」

 すると、少年は「チェッ、もの好きな奴やな」と言いながらも、顔を向けた。

「お前の両親はどうした?」

「そんなもん、知るけ」

 嫌なことを聞くなと拒絶するような雰囲気だ。

「知るけって言ったって、親父やお袋が無くて赤ん坊が生まれるかい」
 
 少年は激しく咳き込んで、血を吐いた。

 「おれはなあ、うどん屋のおなごに生まれた父無し子だ。
 親父はお袋のところに遊びに来ていた大工だそうだ。
 お袋が妊娠したって聞いた途端、来なくなったってよ。
 お袋はおれを産み落とすとそのまま死んじまった」

「そうか」

「うどん屋じゃ困ってしまい人に預けて育てたんだとよ。
 そしておれが7つのときに呼び戻して出前をさせた。
 学校には行かせてくれたが、学校じゃいじめられてばかりいて、
 ろくなことはなかった。
 
 店の主人からもいつも殴られていた。
 ちょっと早めに学校に行くと、朝の仕事を怠けたと言っては殴られ、
 ちょっと遅れて帰ると、遊んで来たなと言って殴られた。
 食べるものも、客の食べ残ししか与えられなかった。
 だから14のときに飛び出したんだい」

「そうか。いろんなことがあったんだな」

「おっさん、笑っちゃいかんぞ。」

「何じゃ。笑いはせんぞ。言っちまいな」

「あのなー、一度でいいから、お父っつぁんと呼んでいいかい」

 三上さんは思わず卯一の顔を見た。
 この機会を逃すまいと真剣そのものだ。

「ああ、いいよ。わしでよかったら、返事するぞ」

「じゃあ、言うぞ」

「いちいち断るな」

 しかし、卯一はお父っつぁんと言いかけて、激しく咳き込んだ。
 身をよじって苦しんで血痰を吐いた。
 三上さんは背中をさすって、看病しながら、

「咳がひどいから止めておけ。
 興奮しちゃ体によくないよ」

 というのだが、卯一は何とか言おうとする。
 すると続けざまに咳をして、死ぬほどに苦しがる。

「なあ、卯一。今日は止めとけ。体に悪いよ」

 三上さんは泣いた。

 それほどまでして、こいつはお父っつぁんと言いたいのか。
 悲しい星の下に生まれたんだなあと思うと、後から後から涙が伝った。

 苦しい息の下からとぎれとぎれに、とうとう卯一が言った。

「お父っつぁん!」

「おう、ここにいるぞ」

 卯一の閉じた瞼(まぶた)から涙がこぼれた。
 どれほどこの言葉を言いたかったことか。

 それに返事が返ってくる。
 卯一はもう一度言った。

「お父っつぁん」

「卯一、何だ。お父っつぁんはここにいるぞ」

 もう駄目だった。

 大声を上げて卯一は泣いた。
 18年間、この言葉を言いたかったのだ。

 わあわあ泣く卯一を、毛布の上から撫でさすりながら、
 三上さんも何度も鼻を拭った。

 明け方、とろとろと卯一は寝入った。
 三上さんは安らかな卯一の寝顔に満足、一睡もせず足をさすり続けた。

・  ・  ・  ・  ・  ・

 三上さんが院長室に帰ると、そこに院長先生がいた。
 昨晩は家に帰らず、院長室のソファに寝たようだ。
 
 院長室のドアが慌ただしくノックされた。

 どうぞ。という院長の声に息せきって入って来たのは、若い医師だった。

「ちょっと報告が・・・」
 という声に、院長は席を立って、事務机の方で若い医師の報告を聞いた。
 そして聞くなり、叫んだ。 
 
「三上先生!津田卯一はたったいま息を引き取りました。」

「えっ!」
 三上さんは茫然とした。

 若い医師は信じられないものを見たかのように、深く息を吸い込んだ。

「毛布の下で合掌していたんです!
 あいつが、ですよ・・・  信じられない・・・
 合掌していたんです」

 涙声に変わっている。
 院長もうつむいている。
 三上さんもくしゃくしゃな顔になった。

「・・・卯一、でかしたぞ。よくやった。
 合掌して死んでいったなんて・・・。
 お前、すごいなあ、すごいぞ」

 あたかもそこに卯一に語りかけているようだった。

「卯一よお、聞いているかあ・・・。
 なあ、お前を産んでくれた親のことを恨むなよ。
 お前に辛く当たった大人たちのことも許してやってくれ・・・。
 わしもお詫びをするさかいなあ」

 三上さんの涙声に、院長の泣き声が大きくなった。
 
 そうだった。
 誰も人を責めることはできないのだ。
 責めるどころか、お詫びしなければいけないのだ。
 いさかい合い、いがみ合う世の中を作ってしまっていることに対し、
 こちらから先に詫びなければいけないのだ。
 
 そうするとき、和み合い、睦み合う世の中が生まれてくるのだ。
 病院を出て、講演先の講演に向かう三上さんの肩に秋の陽が躍っていた。

       下坐に生きる: 神渡良平氏
 
2014/07/19

2012年のロンドンオリンピックで
実に28年ぶりとなるメダル獲得をもたらした
「火の鳥NIPPON」こと、全日本女子バレーボールチーム。

現在、全日本チームの主将を務める木村沙織選手をはじめ、
荒木絵里香選手、大山加奈選手など、
数々の日本代表選手を輩出してきた名将がいます。

高校女子バレー界の名門・下北沢成徳高校で
30年以上にわたりチームを率いている
小川良樹監督、58歳。

  「選手が自立しなければ頂点には立てない」
        
 小川良樹(下北沢成徳高等学校バレーボール部監督)
   

井上 小川先生にとっての転機は、
   33歳の時にスパルタから指導法を変えられたことだと思うんです。

そこからどのようにチームが変わっていったか、
お話しいただけますか。

小川 実はうちも練習に制約がありましてね。

成徳の体育館は狭い上に一面しかなく、
バレー部が使えるのは火木土の週3日だけなんです。

加えて、東京には八王子実践高校や中村高校といった
強豪が揃っていましたので、
優秀な選手はそういう上位チームに集まっていました。

そういう状況の中で、
日本一になるためにはどうしたらいいか、
そのことだけを四六時中考えていました。

当時はどこの学校のバレー部も
厳しい練習が徹底されていたんですけど、
強豪と同じ練習を追求しても、
選手の能力に差がある以上、敵わないだろうと。

それにやっぱりしごきの形だと
放課後練習に行くのが嫌になるんですね。

そこでまず、選手たちが嬉々として
練習できる環境をつくろうと。

要はどうやってバレーを好きにさせるか、
バレーの練習を自分から積極的にやるようにするか。

やらされている意識ではなく、
早くバレーの練習がしたいと思ってくれたら、
もしかすると強豪を逆転できるんじゃないかと考えました。

井上 選手たちの自主性を育むことに着眼された。

小川 それで、井上先生と同じように
   部員の上下関係をなくしましたし、練習方法も変えました。

バレーボールは「できるまで」っていう練習が
すごく多かったんですね。

例えば、10本レシーブが上がるまでとか、
アタックが10本決まるまでとか。

ところが、バスケットやラグビーなど、
他のスポーツの練習を見に行くと、
そういう形じゃなくて時間制にしていると。
この発想が私にはなかった。

練習を時間で区切る。
あるいは、数字をしっかり記録して、
昨日よりきょうのパーセンテージが上がるようにする。

そうやって成果を目に見えるようにすることで、
選手たちのモチベーションを高めていったんです。

周りの監督からは、

「そんな甘い練習はダメだ」
「何でできるまでやらせないんだ」

って随分言われましたけど、
それを繰り返しやって精度を高めていくことで、
少しずつ勝てるようになりました。

井上 実際にチームが変わっていかれたわけですね。

小川 インターハイ準優勝や春高バレー3位など、
   日本一を狙える位置につくようになりました。

そんな中、2000年4月に大山加奈や荒木絵里香といった
優秀な選手たちがゴソっと入部してきたんです。

大山は身長187センチ、成徳の付属中学で
全国優勝したエースでしたし、
荒木もバレーの経験は少なかったものの、
186センチと高い身体能力を持っていました。

これほどの選手は当時日本中を見回してもいませんでしたし、
日本のバレー界にとって大きな宝でしたので、
この子たちを潰してはいけないと。
指導者としての責任をものすごく感じました。

それまでは「俺が、俺が」っていう気持ちがすごく強くて、
自分が上から選手を引っ張るんだと思っていたんですけど、
彼女たちが入ってきた頃から、
逆に自分は下から選手を支えようという考え方に変わりました。

そして2002年、大山と荒木が3年生の時に
春高、インターハイ、国体で優勝し、
三冠を達成することができたんです。

この時、私は多くのことを選手から教わりました。

選手が主体的に取り組んでいたり、
選手たちだけで上手くチームが回っている時には、
監督は口を出すべきではないと。

井上 ああ、選手の邪魔をしない。

小川 もちろんすべて選手たちだけではできないので、
   私は常にコートに立って選手を観察します。

ただ、教え過ぎない、押しつけないということをしながら、
選手たちが自分で工夫する環境をつくっていくようにしているんです。

やっぱりコートで戦う選手自身が
自立しないと頂点には立てない。

自分で自分のスイッチを入れられない、
常に監督からスイッチを入れられて頑張るという状態では、
本当の意味で強くならないのだと思います。
 
2017/07/17

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