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日本人として 中山 恭子(参議院議員) 中央アジアの一国、ウズベキスタン共和国。 戦後、この地に強制労働下におかれた 日本人たちがいました。かれらは苦しい 状況下に置かれながらも希望を失わず、 懸命に生き抜いたのでした。 大使の仕事は両国の友好関係を深めることをはじめ、 経済発展の支援や、両国の文化交流、 人的交流など様々です。そのために各地を巡りましたが、 行く先々で、必ずと言ってよいほど、 現地の人たちが教えてくれることがありました。 「いま走っているこの道は、日本人がつくった道だ」 「あの建物は、日本人が建ててくれたものです」 「あそこの運河も日本人がつくってくれました」 「このアパートは日本人が 建てたものだから強くて安心なんです」 それも、誰もがまるで我がことのように 自慢げに話してくれるのです。他にも首都タシケント にあるナヴォイ劇場やベカバード市の水力発電所など、 日本人によって建てられた建造物は枚挙に遑がありません。 しかも、その多くが強い地震にも、 びくともしなかったというのです。 皆が教えてくれる日本人とは 誰のことを指しているのでしょう。 敗戦後、各部隊からソ連軍によって強制的に 移送されてきた日本の軍人たちです。 極東から貨物列車に揺られてシベリアの地を越え、 遠くウズベキスタンの地に連れてこられました。 おそらくウズベキスタンでの使役は、 初めから重労働を課す仕事が大半を占めていたのでしょう。 20代から30代の若者たち約2万5,000人でした。 しかし、たとえそのように比較的恵まれた 環境にあったとしても、その日常は、朝になると 隊列を組んでラーゲリ(収容所)を出て仕事場に向かい、 一日の重労働を終えると再び隊列を組んでラーゲリに 戻ることの繰り返しで、祖国日本の地を 再び踏めるとの保証はどこにもありませんでした。 そのような状況下に置かれた彼らを支えていたのは 一体何だったのでしょうか。それはほかでもありません。 「日本人として恥ずかしくないものをつくろう」 という一念でした。また、いつ帰れるか分からなくとも、 「いつの日か、もう一度桜を見よう」を合言葉に頑張ったと、 日本に戻った方々からお聞きしました。 いつ果てるともしれない抑留生活。その中にあって、 彼ら日本人は、どんなに辛く厳しい仕事であっても、 ともに励まし合いながら、規律を守り、勤勉に、 几帳面に、工夫をして、与えられた仕事をやり遂げました。 やがて日本人の真摯な働きぶりが一人の 少年の心を動かし、一国の大統領を生み出す きっかけにもなりました。 |
2018.06.08 |
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