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人間の姿勢は一つでいい ~佐藤忠良先生から学んだこと~ 笹戸千津子(彫刻家) 「人間はある年齢になると下降線を辿る。 だけど僕は、地面スレスレでもいいから、 ずっと水平飛行しながら一生を終えたい」 世界的な彫刻家・佐藤忠良先生はこの言葉どおり、 二年前に九十八歳で亡くなるまで 創作活動に情熱を燃やし続けました。 私が佐藤先生とご縁をいただいたのは昭和四十一年、 新設された東京造形大学の一期生として入学した時でした。 母と乗った入学式に向かうバスで、 たまたま隣にハンチング帽をかぶり、 大きな鞄を抱えた、俳優の宇野重吉さんに似た男性が 座っていました。 その人が佐藤先生だったのです。 先生は山口の田舎から一緒に上京してきた母に 親切に話しかけてくださり、 細やかな心遣いを示してくださった一方、 その直後に行われた入学式では実に斬新なスピーチをされました。 日本の美術大学の歴史が始まって以来、 これほど程度の低い学生が集まったことはないだろう。 けれども私は、本人も世の人も天才だと思っているだろう 私の母校・東京藝術大学の学生と競争させてみるつもりだ。 素直に一所懸命に勉強すれば、 卒業時には一番成績の悪い学生でも 藝大の学生の下から三番目以上の力をつけさせる」 父母もいる前でこんな話をする先生のことを、 最初は随分変わった人だと思いましたが、 授業を通じてそのお人柄と芸術に対する深い洞察に触れ、 私はたちまち深い感化を受けました。 「大学の門を一歩くぐったら、 僕は教える人、君たちは習う人、 この区別をハッキリさせよう。 でも大学の門を一歩出たら、 お互いに芸術で悩む人間同士として付き合おう」 そんな佐藤先生から、四年の履修期間が終わり、 研究室に三年間残った後、 「僕のモデルを務めてほしい。 その代わり僕のアトリエで自由に仕事をしていいから」 と誘われ、私は迷わず承りました。 おかげさまで私は先生のそばで創作活動を続けながら、 「帽子・夏」をはじめとする「帽子シリーズ」など、 七〇年代以降の先生の九割方の作品で モデルを務める僥倖に恵まれました。 そのうち秘書のお仕事も担うようになり、 お亡くなりになるまで 四十年以上も身近にお仕えしたのでした。 私が彫刻の道を志した当初、 まだ女性で彫刻をやる人は稀でした。 けれども父は、 これからは女性も手に職を持たなければならない、 と理解を示してくれ、 「おまえは特別才能があるわけではないから、 人より少しでも抜きん出たかったら人の三倍やりなさい」 と励ましてくれました。 私自身も、せっかく生まれてきたからには 自分をとことん試してみたいと思い、 自ら土日もなく佐藤先生のアトリエに通い詰め、 作品審査では必ず他の方より多く出品し続けました。 先生も私の意気込みに応えてますます創作に熱中され、 二人で競うように作品に取り組み続けたものです。 アトリエでは先生の粘土練りや心棒づくりをお手伝いしながら、 概ね午前中に自分の作品制作を行い、 午後は先生のモデルを務めました。 モデルを務めている時間は当然自分の作業はできませんが、 先生が制作に呻吟される姿を直に拝見するのが、 何物にも代えがたい勉強でした。 作品に向かう先生の姿勢は大変厳しく、 道具や粘土を粗末に扱うと厳しく叱責されました。 また、彫刻に男も女もない。 男に手伝ってもらおうと思った瞬間から負けが始まる、 と女性にも一切甘えは許されませんでした。 若い頃は 「こんなみっともない作品を 僕のアトリエに置いてもらったら困る」 と完成間近の作品を壊すよう命じられ、 涙に暮れた体験は数え切れません。 けれども先生は、一度制作の場を離れると 実に温かい思いやりを示してくださいました。 「世の中には低姿勢とか高姿勢って言葉があるけれども、 人間の姿勢は一つでいいんだよ」 と、どんな偉い方にもへつらわず、 また職人さんやお手伝いさんにも細やかな心遣いを示されるので、 面会した人は誰もが感激し、先生の虜になりました。 こうした先生の姿勢は、幼くして 父親を亡くし他家へ書生に入り、また先の大戦で応召し、 三年間もシベリアで抑留生活を送られた ご体験とも無関係ではないでしょう。 イギリスに彫刻家のヘンリー・ムーアを訪ねた時、 既に晩年で病床にあったムーアが、 きちんとネクタイを締めて応対してくれた姿勢に感銘を受け、 「隣人へのいたわりや優しさのない人間が創る芸術は、 すべて嘘と言ってもいい」 と繰り返されていました。 学生時代に師事した朝倉文夫先生から 「一日土をいじらざれば一日の退歩」 と教えられた佐藤先生は、講演会などで若い学生から、 「佐藤先生のような素晴らしい作品を 創作するにはどうしたらいいですか?」 と質問されると決まって、 「コツはただ、コツコツコツコツやることだよ」 とユーモラスに答えていらっしゃいました。 生涯水平飛行を願った先生ですが、 それは極めて辛いことだともおっしゃっていました。 それでも先生は毎朝八時過ぎには必ずアトリエに入り、 生涯休むことなく活動を続けられました。 私もこの偉大な師の志を継ぎ、 命の炎が尽きるまで 創作活動に打ち込んでゆきたいと願っています。 |
2013.09.03 |
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