本文へスキップ

      次代に輝く住まいを創る

TEL. 0246-65-2311

〒979-0154 福島県いわき市沼部町鹿野43

一語履歴WORD vol.557

過去の一語履歴を見ることが出来ます。

一語履歴 HOME
⇦前 一語履歴 次⇨ 
一語履歴 vol.560
無心になった時に売れる 560a後を振り向かないで自由に生きていこう
一語履歴 vol.559
危機の最中に行われた「熱海会談」 559a「ほんとうに美しいもの」を...
一語履歴 vol.558
体育が苦手な人間が先生になれば... 558aお嬢さん 元気ですね 元気が一番
一語履歴 vol.557
忍び難きをよく忍び行じ難きをよく行じ 557a自発的に挑戦していると...
一語履歴 vol.556
組織をまとめていく上で... 556aいまから一時間あるけれど何がしたい?
一語履歴 vol.555
自分はここに居ていいんだ 555a道が私の道になっていく
一語履歴 vol.554
おい、清次君。 554a社会を育てるという思いで生きていた
一語履歴 vol.553
なぜあの場面で攻めに行かなかったのか 553a一人ひとりの才能・個性を...
一語履歴 vol.552
「自分」という存在は... 552a目的それをはっきり認識させる
一語履歴 vol.551
闘っていたのは自分一人ではない
忍び難きをよく忍び行じ難きをよく行じて
国家の再建に尽くしていただきたい

かつて山本玄峰という禅僧がいました。
若い頃に目が不自由になるなど様々な辛酸をなめながらも、
説法などを通して多くの人たちの心に光を灯し続けた名僧です。
その玄峰老師の平和に対する思いは、
昭和天皇の「終戦の詔勅」にも影響を与えたとされます。
法統を嗣ぐ三島・龍澤寺の後藤榮山老師のお話

(後藤)
玄峰老師の仏教者としての足跡で、
どうしても書き留めておかなくてはいけないことがあります。 

大東亜戦争末期の1945年4月、
時の総理・鈴木貫太郎は日本がポツダム宣言を受諾するか否か、
その判断に大変苦しんでいました。
私も子供ながらに当時のことは鮮明に記憶していますが、
戦争の早期終結を求める声がある一方、
阿南惟幾陸軍大臣を中心に
本土での一億総決戦を強く主張する人たちも多くいました。
悩んだ挙げ句、鈴木総理は玄峰老師のもとに使者を遣わされます。

この使者を迎えた玄峰老師は次のようにお答えになるのです。

「日本は相撲でいうならば大関。負ける時は大関は大関らしく、
堂々と負けねばなりません。負けて勝つことを考えるべきです。
何卒、鈴木貫太郎総理、健康にご注意なされ、
どうか忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて
国家の再建に尽くしていただきたい」

ほどなくして「終戦の詔勅」が発せられた折、
「耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ
以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と、
天皇陛下のお言葉に玄峰老師の言葉が引用されたことは、
まさに特筆すべき出来事でした。

2021.04.17

バナースペース

櫛田建設株式会社

〒979-0154
福島県いわき市沼部町鹿野43
Mail infous@kushida-web.com
TEL 0246-65-2311
FAX 0246-65-2313
定休日:土曜日・日曜日