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社会を育てるという思いで生きていた NHK大河ドラマ「青天を衝け」の 主人公・渋沢栄一が注目を集めています。 生涯に481の企業経営、約600の社会事業に携わった渋沢ですが、 これだけの大事業を成し遂げた渋沢とは (守屋) 渋沢栄一は農家に生まれて商売をやり、長じて侍になりました。 その後、官僚を経て実業の世界に入り数多くの足跡も残しています。 一生でこれだけのことがやれるのは、 人間としての器量の大きさを物語っているように思うんです。 パリ万博に行った時、他の侍が誰も考えない経済の重要性に気づいて、 日本に帰ってそれを実行しました。 そういう発想ができるのは、 いろいろな経験や苦労を通して人の気持ちがよく分かるからです。 これはとても重要なことで、 渋沢を大成せしめた要因の一つだと私は感じます。 (童門) 明治4年、岩倉具視をリーダーとする使節団が欧米を視察したでしょう。 新しい日本の国づくりをどのようにするのか、 そのお手本を探そうとしてヨーロッパを歩き回ったわけだけど、 大久保や伊藤博文といった連中が一番関心を寄せたのが、 鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクの考え方でした。 彼らはイギリスやパリで社会福祉の適用を受ける人たちを見ています。 しかし、富国強兵を旨とするビスマルクの思想にコロッとまいってしまって 「社会福祉事業は成熟後の国家がやるべきことだ。 日本はまだそこまで行っていない」と考えるんです。 そんな中で渋沢はちょっと違った見方をしていました。 成熟社会になった後で福祉をやるのではなくて、 弱い人間に対する福祉は最初からきちんと取り組まなくてはいけないと。 (守屋) 渋沢の晩年、暗殺が流行ったんですね。 團琢磨や安田善次郎などいろいろな実業家が暗殺されましたが、 渋沢は一切標的になっていません。 安田を暗殺した朝日平吾という男は、 その前に渋沢の家に行っているんです。 しかし、この時、刃物は持っていなかったといわれています。 渋沢が常に人々を救う、社会を育てるという思いで 生きていたことを知っていたのでしょう。 有名な話ですが、渋沢が亡くなった時、 飛鳥山の渋沢の家から青山の葬儀場まで並んだ見送りの数は 2万人だとされています。 誰かが動員したわけではなく、 皆、お世話になったという感謝の気持ちで見送っているんですね。 私が渋沢は実業家とは違うと思う理由の一つはそこです。 (童門) 渋沢が忠恕の人でなかったら、 そんなにも人々に惜しまれることはなかったでしょう。 |
2021.04.08 |
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