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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.328

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最高の味を求めて、86歳のいまも
酒造りに余念のない農口尚彦さん。

その腕前から「酒造りの神様」と
称されるほどですが、造り手の原点は、
20代の頃に出逢った恩師の存在がありました。

農口 尚彦(農口尚彦研究所杜氏)

私の人生で最も大きな出逢いと言えば、
私を杜氏として迎え入れてくださった
菊姫合資会社(石川県)の柳辰雄社長との出逢いです。

私は山中正吉商店で4年間働いた後、
三重県と静岡県の酒屋でそれぞれ4年間修業を積み、
28歳で菊姫の杜氏になりました。

柳社長は明治の生まれで、当時50歳前後でした。
小さい頃から体が弱く、家業を継ぐとは思っていなかったそうですが、
先代が倒れたのを機に、勤めていた銀行を辞めて戻ってきたんです。

苦労人であり、実に素晴らしい人間性の持ち主でした。
あの方の下なら、もう120%完全燃焼したいなぁ
という気持ちになれるんです。

──徳望の篤い経営者だったのですね。

もうね、謙虚で我欲が全然ない。
柳社長はしょっちゅうこう言われていました。

「俺は酒も飲めんし、酒造りも分からん。
 とにかくお客さんに喜んでもらうために、
 いい原料を買ってやるから、お客さんがこれはうまいって
 買いに来てくれる酒を造ってほしい」

と。類は友を呼ぶと言いますけど、そういう社長ですから、
社員も取引先も同じように我欲のない人ばかり集まってくる。

「商売は儲けてなんぼや」って感じの人は一人もいない。

そうやって高い原料を使って、手間隙をかけて、
いい酒を造り続けた結果、ある時から東京の市場で
菊姫に高値がつくようになり、どんどん売れて
利益が出るようになったんです。

私はそれを見ていて、「なるほど、
商売というのはこういうものなのか」と感じました。
金儲けを前提にして商売するところへは、
全然お金が流れていかない。けれども、お客さんを大事にして、
喜んでもらおうと考えて商売していると、
たとえ一時的には採算の合わないものを造っていても、
最後は必ず人もお金も押しかけてくる。

──まさに商売繁盛の極意と言えますね。

はい。私自身もうまい酒を造って、
一人でも多くのお客さんに喜んでもらいたいっていう
ことしか頭にないんですよ。
だから、いまでもファンの方に囲まれて、
仕事をさせてもらっているんだと思います。

そういう意味で、柳社長は私の人生の基礎を
築いてくださった恩師に他なりません。
 
2019/01/11

幕末、長州藩にはおろか日本にも
人材がいないことを嘆いた吉田松陰が、
自らの手で人材教育を始めたのが
松本村の松下村塾でした。

ここで松陰はわずかな期間で、多くの人材を
輩出したわけですが、明治国家を見ることなく
非業の死を遂げた弟子たちも少なからずいました。

一流の弟子たちは若死にした。
そのことを端的に記した一枚の絵に童門先生が注目。

童門 冬二(作家)

吉田松陰は、萩の郊外にある松本村の一角から、
長州藩政を凝視し、徳川幕政を凝視した。

凝視すれば欠陥だらけだ。アメリカからやってきた
ペリーの桐喝外交に対してさえ、いまの幕府や大名家は
オロオロするだけで、的確な処置がとれない。

「一体何をやっているのだ? こんなことではダメだ」

そこでかれは、自らアメリカに密航して
かの国の実態を自分の眼で見、
自分の耳できいてこようと企てた。それが失敗した。

しかし失敗したからといって、
その考えを屈したわけではない。
かれは、次第に日本国内にみなぎりはじめた
「穰夷論」に対しても、独自な考え方を持っていた。

ただ闇雲に、「日本にやってくる外国船は撃ち払え」
などというコチコチな教条主義を主張していたわけではない。

かれは文化の度合において、それぞれの国が
優っているか劣っているかも大切なモノサシだと考えていた。

従ってアメリカに対しても、
「鎖国令は日本の祖法なのだから、これを死守する」
などというような考え方は持っていなかった。
「まず、アメリカと日本の文化の程度を比較すべきだ。
もしかの国が優れているのなら、日本は謙虚にそういう程度の
高い文化を受容すべきである。そして国力を充実して、
撃べき時には撃つべきだ」と考えた。

しかし、結局のところ松陰のみたところでは、
長州藩にも日本にも人材がいないということである。
従ってかれが松本村の松下村塾に託したのは、

「共に学んで共に向上し、長州藩政や日本国政を
 担えるような人材をまず生もう。
 その人材たちによってつくられる新しい政治体制や、
 社会状況の中からこそ新しい日本の高い文化が生まれてくる」

と考えたのである。それがかれの
「華夷の弁を明らかにする」ということであった。

その意味では、かれが考えた松本村の地域構想は、
単なるシャングリラ(ジェームス・ヒルトンの有名な小説
『失われた地平線』の中に出てくる理想郷)や
ユートピアをつくろうとしたわけではない。もっと厳しい。

「ここで学ぶ者は、単に松本村の地域的な向上を図るだけではない。
 長州藩全体の、そして日本国全体の向上を図れるような人材を
 育成し、そういう人々によってつくられる
 ひとつの模範的な地域を実現することだ」

と考えていた。松下村塾はまさしくそういう
理念を凝縮した教場であった。
この理念があったからこそ、かれの一年数ヶ月に
しかすぎなかった教育が、後に明治維新を招来し、
国家を担うに足るような人材を、この小さな村の
小さな学塾から多く出すゆえんになったのだ。

ここで学んだ弟子たちが、その後日本国家を担う
高級官僚にのし上がっていったが、果たしてかれらが
最後までこの吉田松陰の理念を、
日本国という規模において実現したかどうかは疑問だ。

ある時、松下村塾のある門人が一枚の絵を描いた。

暴れ牛と、藩の政事堂に端座している人物と、
一本の棒きれである。これをみた若き日の山県有朋が、

「この絵は何を描いたのだ?」

ときくと、描いた者はこう答えた。

「暴れ牛は高杉晋作だ。政事堂に座っているのは久坂玄瑞だ。
 そしてただの棒きれはおまえだ」

この時代絵を描いた門人からみれば、山県有朋は
単なる棒きれとしか思われていなかったのである。

同じく村塾に学んでいた伊藤博文も、吉田松陰からは、

「おまえは学問よりも、周旋(外交)の方が向いている」

といわれた。口が達者だったということだろう。

事実伊藤博文は松陰のいう通りになった。
そうみてくると、松陰が心を託していた一級の弟子たちは、
みんな明治維新前に死んでしまったということになる。

明治国家を担ったのは、松陰のいう周旋の技に巧みな者や
棒きれでしかなかった。

俗な言葉を使えば、松下村塾における一流の門人たちは早死にし、
三流四流の弟子たちが生き残って明治国家をつくったといっていい。

しかしいずれにしても吉田松陰の
「松本村を国際的文化村に仕立て上げよう」
という壮大な理念は、改めて光を当てられるべきだろう。
 
2019/01/10

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