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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.323a

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〈出口〉 
『貞観政要』に出てくる三鏡(銅の鏡・歴史の鏡・人の鏡)の教えは、
僕の座右の銘の一つであり、これはぜひ若いリーダーに伝えたいですね。
「太宗、嘗て侍臣に謂いて曰く、
 夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。
 古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。
 人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。
 朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ」
 
第一に、鏡に自分の姿を映し、
元気で明るく楽しい顔をしているかどうかを確認する。
上司が暗い顔をしていたら、職場の空気が淀み
、部下が伸び伸びと働くことができなくなってしまう。
 
第二に、将来を予測する教材は過去の出来事しかないので、歴史を学ぶ。
歴史を学んでいなければ、何か起こった時に慌てふためいてしまう。
 
第三に、部下の厳しい直言や諫言を受け入れる。
また、自分の周囲にそういう人を配置しないと、裸の王様になってしまう。
 
この三鏡の教えはシンプルかつ永遠の真理だと思います。
 
出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。1972年京都大学法学部を卒業後、日本生命保険相に入社。
ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て、2006年退職。
同年ネットライフ企画㈱設立、社長に就任。
2008年ライフネット生命保険㈱を開業。2012年東証マザーズ上場。
2013年会長(2017年退任)。2018年1月より立命館アジア太平洋大学(APU)学長。
著書に『全世界史(上下)』(新潮文庫)など多数
 
2018/12/14

数々の有力タレントを輩出してきたホリプロ。
その創業者である堀威夫さんは、
20代で大きな挫折を味わいながらも、
「それでも自分は運がよかった」という思いで、
一つの道を切り拓てこられました。

堀 威夫(ホリプロ創業者)

忙しい日常は二十代を通して変わらなかったが、
一つの節目となったのが27歳の時。

子供が生まれたのを機に裏方に専念することにし、
自分が見出したバンドや歌手をマネジメントする
会社を立ち上げたのである。

しかし、二十代の若造が社長を名乗ることに
気恥ずかしさもあり、お世話になっていた人に
名目上の社長になっていただいたことが裏目に出た。

出演依頼が重なって、抱えていた歌手を
その人の営む店に回せなかったことでトラブルとなり、
会社を乗っ取られてしまったのである。

大学の商学部を出ていた私は、真面目に勉強をしておけば
こんなことにはならなかったと悔やんだが、後の祭りである。

当時はまだ電話を引くのが大変な時代。

会社を乗っ取られて仕事の連絡もままならなくなった私は、
やむなく自分が売り出した歌手の電話を借りて、
仕事を再開した。ホリプロはそんな状況の中で誕生したのである。

事前に何の準備もなく立ち上げたために、
資金繰りには随分苦労した。前の会社で一所懸命育てた歌手が、
自分についてこない現実も思い知らされた。

それでも自分は運がよかったと思っている。

最初の会社では仕事も順調で、
自分がやればスターなんかすぐ育てられると思い上がっていた。
あのまま続けていたらきっとどこかで躓き、
業界から姿を消していたことだろう。

危ない橋に何度も遭遇しながら、
とうとう渡り切ることのできた自分は本当に幸運である。

そうした様々な試練を体験して学んだことは、
どんな時もいい顔をつくれていなければ、
人も運も寄ってこないということである。

お通夜の晩のような顔をした人間には、
勝利の女神が微笑むはずがない。

ホリプロ本社のエレベーターを降りると、
大きな姿見が掲げてあるが、その端には
「いい顔つくろう」と記されている。

小さな文字なので見過ごしてしまいがちだが、
極めて重要な示唆を与えてくれている。

社長を務めていた頃は、朝起きて身支度を整える時、
それから会社に出社した時、必ず鏡で自分の顔を
チェックするよう社員に説いていた。

前日の嫌な気分を引きずっていては、
決してよい仕事などできないからである。
 
2018/12/10

熊沢蕃山(くまざわばんざん)といえば、
陽明学者の中江藤樹に師事し、
江戸前期の名君といわれた岡山藩主池田光政の
藩政改革を補佐した人物として知られています。

その蕃山が、明治時代の技術者を
うならせたという逸話があるそうです。

童門 冬二(作家)

熊沢蕃山は、江戸時代の実学者として知られている。

「かれは陽明学者だった」
という説もあるが、必ずしもそうではないらしい。
かれは、朱子学にも造詣が深かった。

朱子学と陽明学の長所を混合した学説を
立てていたとみてもいいのではなかろうか。

蕃山は名君といわれた備前岡山藩の藩主
池田光政に仕えて、藩政を指導した。

蕃山の唱える学説は「心学」と呼ばれたが、
徳川幕府首脳部は警戒していた。

「心学は、社会の秩序を乱す危険性がある」

とみていたのである。そのため、蕃山はやがて致仕し、
領内の知行地に隠居した。知行地を“蕃山(しげやま)村”と
地名変更し、ここで農業指導をした。

後に、備中松山(現在の岡山県高梁市)の、
農民出身の家老だった山田方谷がすすめた屯田制度は、
この蕃山の流れを引くものだ。

熊沢蕃山は農業指導だけではなく、
土木建設工事の知識や技術も持っていた。
かれが築いた岡山港の堤は有名だ。

この堤防について面白い話がある。

明治になってから日本の築港技術者として
有名なのが服部長七だ。

広島県の宇品港をはじめ、岡山港、神戸港、
佐渡港などの新造や、改修工事の指揮を執った。

変わった男で、それぞれの港でのエピソードがある。

宇品港の築港を命ぜられた時は、
毎日船を出して釣りをしていた。
仕事を頼んだ知事が怒った。

「釣りばかりしていないで、早く仕事をしろ」

すると服部はこういい返した。

「伊達に釣りをしているわけではありません。
 わたしは毎日魚を釣るのではなくワラジを
 釣っているのです。つまり、毎日ワラジが
 釣れるということは、海の底の流れが穏やかで、
 ここなら港を造っても大丈夫だ
 という地点を探しているのです」

知事はいい返す言葉を失ったという。
佐渡港を造る時は、

「おれの技術は、水の神と風の神からの直伝だ」
とうそぶいた。また神戸港を造る時は、

「毎日、海辺に立って何をしているのだ?」
と人にきかれ、

「波と相談しているのだ」
と答えたという。そんな服部長七が、

「これは参った!」

と降参したのが、岡山港だった。
岡山港は、既に江戸時代から堤が築かれていた。
改修を命ぜられた服部長七は、くまなく古い堤をみて歩いた。
しきりに首をひねった。同行していた役人が、

「何をそんなに感心しているのだ?」

ときくと、

「この古い堤は、理論的にも技術的にも、
 現在の技術をはるかに超えている。
 一体、誰が造ったのですか?」

ときいた。役人は即答ができなかった。
役所に戻って調べてみると、
熊沢蕃山が造ったものだと分かった。
そこで服部長七に、

「あの堤は熊沢蕃山という人が造ったのだ」

と告げた。長七は感動して、

「ぜひ、その熊沢さんに会わせてくれ。
 もっと話をききたい」

といった。役人は弱った。
何百年も前に死んでいると告げると、
長七はさらに目をみはった。

「そんな昔の人が、よくあんな堤を造った。これは驚いた」

自信家だったかれが、初めて先人の知恵と
技術に降参したという話が残っている。
熊沢蕃山は、そういうように学問を後輩に教えるだけでなく、
実際に工事面でも優れた知識と技術を持っていた。
 
2018/12/06

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