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      次代に輝く住まいを創る

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〒971-8134 福島県いわき市鹿島町飯田字八合22

一語履歴WORD vol.301

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日本人がつくった...
中山 恭子(参議院議員)

中央アジアの一国、ウズベキスタン共和国。
戦後、この地に強制労働下におかれた
日本人たちがいました。かれらは苦しい
状況下に置かれながらも希望を失わず、
懸命に生き抜いたのでした。

大使の仕事は両国の友好関係を深めることをはじめ、
経済発展の支援や、両国の文化交流、
人的交流など様々です。そのために各地を巡りましたが、
行く先々で、必ずと言ってよいほど、
現地の人たちが教えてくれることがありました。

「いま走っているこの道は、日本人がつくった道だ」
「あの建物は、日本人が建ててくれたものです」
「あそこの運河も日本人がつくってくれました」
「このアパートは日本人が
 建てたものだから強くて安心なんです」

それも、誰もがまるで我がことのように
自慢げに話してくれるのです。他にも首都タシケント
にあるナヴォイ劇場やベカバード市の水力発電所など、
日本人によって建てられた建造物は枚挙に遑がありません。

しかも、その多くが強い地震にも、
びくともしなかったというのです。

皆が教えてくれる日本人とは
誰のことを指しているのでしょう。

敗戦後、各部隊からソ連軍によって強制的に
移送されてきた日本の軍人たちです。
極東から貨物列車に揺られてシベリアの地を越え、
遠くウズベキスタンの地に連れてこられました。

おそらくウズベキスタンでの使役は、
初めから重労働を課す仕事が大半を占めていたのでしょう。
20代から30代の若者たち約2万5,000人でした。

しかし、たとえそのように比較的恵まれた
環境にあったとしても、その日常は、朝になると
隊列を組んでラーゲリ(収容所)を出て仕事場に向かい、
一日の重労働を終えると再び隊列を組んでラーゲリに
戻ることの繰り返しで、祖国日本の地を
再び踏めるとの保証はどこにもありませんでした。

そのような状況下に置かれた彼らを支えていたのは
一体何だったのでしょうか。それはほかでもありません。
「日本人として恥ずかしくないものをつくろう」
という一念でした。また、いつ帰れるか分からなくとも、
「いつの日か、もう一度桜を見よう」を合言葉に頑張ったと、
日本に戻った方々からお聞きしました。

いつ果てるともしれない抑留生活。その中にあって、
彼ら日本人は、どんなに辛く厳しい仕事であっても、
ともに励まし合いながら、規律を守り、勤勉に、
几帳面に、工夫をして、与えられた仕事をやり遂げました。

やがて日本人の真摯な働きぶりが一人の
少年の心を動かし、一国の大統領を生み出す
きっかけにもなりました。
 
2018/06/08

「あじさいの花」 坂村真民

     まるくまるく
     形のよいものになろうとする
     やさしい心の あじさいの花

     きのうよりも きょうと
     新しい色になろうとする
     雨の日の あじさいの花

あじさいの花のように、
まるくまるく、やさしい心を養いたいと思います。
 
2018/06/07

船橋 康貴(ハニーファーム代表理事)

養蜂家として世界一のハチミツをつくると
評判の船橋さんは、もともとはシンクタンの
社長でした。

──養蜂家としての活動は
  何年くらい経つのでしょうか?

今年で7年目になりますが、それ以前は
環境シンクタンクの社長でした。環境問題を
突きつめてやってきた人間が、養蜂家になったのは
世界中を探してもおそらく僕くらいだと思います。

51歳を境にそれまで築いた地位や名誉、
財産すべてを擲って、つなぎ姿で日の出とともに
仕事場に向かう生活となり、収入なんてそれまでの
20分の1になりましたからね。

──なぜそれでも養蜂家の道を選ばれたのでしょうか。

ある環境問題の講演後に若い女の子が僕の前に来て、
「先生、私たち、子供を産まないほうがいいですよね」
って話し掛けてきたんです。
彼女には未来への希望の代わりに絶望しかなく、

「こんなに生きづらい世の中で、
しかも環境までめちゃめちゃなのに、
これから子供を産み出すってことは、
その子に苦労を強いることですよね」って。

それも一人じゃなく、何人かに言われました。

同じ時期に中学2年生の女の子が、環境問題について
インタビューをしたいと訪ねてきたことがありましてね。
環境問題って、結局は人間の話になるんですけど、
話の途中でその子が急に泣きじゃくりながら、
「船橋さん、生きるって何ですか? 人生って何ですか?
私の周りの友達がみんな下を向いて病気になっていきます。
私たちを助けてください」って叫ぶように訴えてきたんです。

──では、そういった切実な声が後押しになったわけですね。

彼女たちの言霊の剣が、僕の胸をズボッと貫いた。

自分の無力さを感じるとともに、もうシンクタンクの
社長はやっていられない、そう思ったんです。

その直後に、たまたま知人に誘われたのがきっかけで
ある養蜂家を訪ねました。実際にミツバチを見たり、
75歳の養蜂家にミツバチが危機的状況に置かれていること
など聞いているうちに、僕は稲妻に打たれたような
感覚に襲われて、ハッと気づいたんです。そうか、
ミツバチを先生にして教えてもらったら、
きっとすべてが解決するだろうって。
 
2018/06/04

森口 邦彦(染色家/人間国宝)
   ×
中村 義明(数寄屋建築棟梁)

【中村】
森口さんは染色家の道を歩んでいく、
極めていく中で心掛けてこられたことはありますか。

【森口】
まだきちんとした作品ができていないという思いが強いので、
この道を極めたと言える立場にはありませんが、
私はただ長いこと辛抱してきただけです。
何事でも大切ですよ、辛抱することは。

あとは根気。自分が決めたことに対して決して諦めない。

それから、やっぱり自分に素直になることですかね。
他人がどうこうではなく、自ら求めるものが何なのか
ということを常に自分に問い掛けられるかどうか。
そうして辛抱して根気強くやっていけば、
必ず道は開けてくるんだと思います。

中村さんはいかがですか。

【中村】
私の場合は、やっぱり仕事を好きになることでしょうね。

これは父が言っていたことでもありますが、
建築は建築家がつくるものでも、大工がつくるものでもなく、
お客様がつくるものなんです。

建築家はね、お客様の夢をつくってあげるんですよ。

ですから、建築の仕事を好きになるにはお客様のこと、
お客様の夢を好きにならないといけないわけです。
 
私もうちの職人も皆、父が言ったのと同じように考えて、
住宅だったらそこでよい子が育つようにつくらないといけない、
商業施設なら事業主が儲かるようにつくらないといけない
というように、お客様の夢を実現して、運命を伸ばしていくような
建築を心掛けてきました。

その人らしい家に住んでもらうこと、それが一番です。

【森口】
仕事を好きになる、とても大事なことですね。
 
2018/05/18

バナースペース

展示場 櫛田建設株式会社

〒971-8134
福島県いわき市鹿島町飯田字八合22
福島テレビハウジングプラザ内

Mail infous@kushida-web.com
TEL 0246-76-0255
FAX 0246-76-0256
定休日:水曜日