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一大事とは今日唯今のことなり 8月9日は、すべての日本人、 世界の人々がその記憶に刻むべき長崎原爆投下の悲劇が起こった日です。 22歳で被爆した、永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター 名誉センター長・久松シソノさん(取材当時)の実話 (久松) 被爆直後の長崎で、 ご自分の身も顧みず被爆者の救護にあたられた 医学博士・永井隆先生。43年の短いご生涯は、 「己の如く人を愛せよ」 と説く新約聖書の教えそのままの生き方でありました。 私が被爆をしましたのは、 長崎医科大学附属医院物理的療法科で婦長を 務めていた22歳の時です。 地下で書類の整理をしていたところ、 突然ピカーッと目を射るような閃光が差し、 爆風で吹き飛ばされたかと思うと、 激しく床に叩きつけられていました。 瓦礫の山をやっとの思いで這い出すと、 水道の蛇口が爆風で開き、豪快な音を立てて噴き出しています。 あまりの息苦しさにゴロゴロとうがいをしました。 高い薬局の塀を攀(よ)じ登ると、 顔じゅう血まみれになった永井先生が 「まごまごしていると焼け死ぬぞ」と 懸命に救出の指揮をとられています。 火の手はすぐそこまで来ていました。 「早く逃げましょう!」 そう言った私に、 先生は「一大事とは今日唯今のことなりーっ」と 掠れた声でおっしゃるではありませんか。 私たちが日頃積んできた厳しい訓練の成果はいまここで発揮されるのだ、 私にはそうおっしゃっているように思えました。 先生のこめかみはガラス片で奥深く切られ、 押さえていた指を離すと、ピューッピューッと血の飛び出る始末です。 その上、被爆の2か月前に白血病を患われ 「余命3年」の宣告を受けられていたお体でもありました。 それにもかかわらず、先生はあの極限状況下で まったくご自分の身は顧みることなく、 呼吸が苦しくなれば地面に仰向けになって 心臓を押さえ落ち着きを取り戻されるなど、 ふらふらの足で何回も立ち上がっては救護にあたられるのです。 また先生は戦地へも2度行かれていたため、 組織のあり方とは何かを実によく心得ていらっしゃいました。 |
2019.08.09 |
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