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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.561

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ぼうやいくつだ、どのくらいできるんだい?
ぼうやいくつだ

4月29日は昭和天皇のご生誕を祝う「昭和の日」。
そこで、昭和天皇の最後の料理番を務めた
谷部金次郎さんのお話。

■昭和天皇の食事の献立

「ぼうやいくつだ、どのくらいできるんだい?」

――東京オリンピックが開かれた昭和39年の初春、
天皇の料理番として有名な秋山徳蔵さんのこんな第一声で
宮内庁大膳課の面接が始まりました。

当時、私は17歳。
『日銀クラブ』と呼ばれた超高級料亭の料理長でもある
厳しい義兄の下で、料理人への道を歩んでいました。
そこでの修業は、新人といえども
ただ単にお皿を洗っていればいいというものではなく、
出汁をとることから魚を下ろすことまで、
なんでもやらなくてはなりませんでした。
修業期間は1年半と短かったものの、
普通に料理の勉強をしている人に
負けないだけの自信を私は持っていました。

毎年暮れに、宮内庁の新年祝賀会のお手伝いに
出向いていたことがきっかけになり、
「宮内庁の大膳課に欠員ができた、若い料理人を探している」
と私に声が掛かりました。
どうせ宮内庁職員の食堂だろう。
私は、着慣れないスーツを揃え、宮内庁へ赴きました。

何の連絡もないまま、いつのまにか季節は梅雨になっていました。
半ば諦めかけた頃、宮内庁から採用の通知が届きました。
昭和天皇の食事を作る大膳課和食担当の辞令。
「天皇陛下のお食事なんだから豪華なものに違いない」
「腕によりをかけて勉強して、いい料理をいっぱい作ろう」
と意気込んで大膳課に入りました。

ところが、驚いたことにお食事の献立はごくごく一般的な、
本当にシンプルなものばかりでした。
大根と白滝を油でさっと炒めて煮た物やほうれん草のおひたしなど、
ありふれたお惣菜が中心で、
それはむしろ一般家庭と比べても地味なくらいでした。
食器もいたって質素でした。
「こんな普通のものを作りに来たんじゃない」と
いささか拍子抜けしたほどです。


■穏やかながら威厳のあるお姿

料理人として陛下にお会いできる機会はまずありません。
いつも女官さんを通して陛下の感想が私に伝えられました。
ただ、陛下にお仕えした26年間の中で
1度だけ直接お目にかかることができました。
菊栄親睦会という、
皇族と旧皇族の方々による年に1回の催しの席でのことです。

その頃、私は大膳課に入って5、6年が経っており、
陛下のお食事も作り始めていました。
立食形式のそのパーティーで、私は天ぷらの係になりました。
黙々と天ぷらを揚げていると、
目の前に陛下がお立ちになっていました。
この時初めて陛下に直接こうお声を掛けられました。
「穴子としそを」
「はい、かしこまりました」
そう返事はしたものの、頭の中は真っ白。
緊張して手は硬直し、小刻みに震えて、
穴子としそがうまく箸で掴めません。
どうにか揚げなくては、と震える右手をおさえるように
左手を添えながら、なんとか油の鍋に入れました。

ところが、衣と葉がバラバラになってしまい、
見る影もありませんでした。
それでも陛下は天ぷらの出来栄えを気にするご様子もなく、
喜んで召し上がってくださいました。
その時、私はその場に倒れそうなくらい力が抜けていました。

戦後生まれの私は、正直なところ
それまで陛下を特別な存在と思ったことはありませんでした。
ところがこの日、陛下の穏やかながら威厳のあるお姿に接し、
自分はなんと小さい存在なんだと圧倒されそうになったのです。
生涯この方おひとりのためにお仕えしようと誓ったのはこの時です。

陛下は、思いやりに溢れたお方でした。
例えば人から物をいただかれた時には
贈り主の心を無駄にしないような扱い方をなさり、
常に相手の立場に立ってものごとをお考えになっていました。
お食事に関しても
ご自身のお言葉の影響力を分かっていらっしゃったので、
食べたい物もお言葉にはされませんでした。

しかし、おいしい時は必ず「おいしかった」と伝えてくださり、
一度箸をつけた料理は残さずきちんとお召し上がりになるなど、
私たち料理人にも細かい心配りをされていました。
私は、そんな陛下の豊かな人間性にますます惹かれていました。


■お仕えするのは昭和天皇のみ

陛下が倒れられたのは、昭和63年。
お食事を吹上御所までお運びした数時間後のことでした。
この時のショックはいまも忘れられません。
陛下が最後に口にされた料理はどのような献立だったのか、
いまでも思い出せないくらいです。

それからも陛下のご様態は一向にいい方向には向かわず、
大膳課も最悪の事態に備えていました。
昭和64年1月7日早朝、ついにその時が来ました。
せめて最後のお別れのご挨拶をしたいと、
女官さんの後をついて行き、
御簾の向こう側で
永遠の眠りにつかれた陛下に深々と頭を下げました。
私の料理に「おいしかったよ」と
言ってくださる陛下には2度と会えないと思うと、
魂が抜けていくような気がしました。

御大葬が終わり、私は次の行き先も決まらぬまま、
大膳課を辞める申し出をしました。
子どもたちはまだ5歳と3歳、家を買ったばかりで
ローンもだいぶ先まで残ったまま。
しかし、自分がお仕えするのは
昭和天皇おひとりのみという私の意志は、
決して揺るがなかったのです。

大膳課を辞めた私は、テレビ番組や自宅、大学で
料理を教えるようになりました。
仕事は変わっても、
おもてなしの心が料理を作る上での
原点であるという思いは変わりません。
陛下から学んだ思いやりの心を多くの人に伝えることが、
いまの私の使命と思っています。

2021.04.29

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