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      次代に輝く住まいを創る

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〒979-0154 福島県いわき市沼部町鹿野43

一語履歴WORD vol.097c

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一語履歴 vol.100
まことの花... 100aいくつに... 100b悔しさ... 100cごめんなさいね...
一語履歴 vol.099
一流に... 099a幸せになる... 099b不満は... 099c不可能を...
一語履歴 vol.098
たった... 098a伸びる... 098b天の声... 098c人生の花... 098d一生修行...
一語履歴 vol.097
22年間... 097a信頼... 097bゾウ... 097c人生の花...
一語履歴 vol.096
求められること... 096a迷った時... 096b脊髄に... 096c試されている...
一語履歴 vol.095
日本一... 095aアイデアの... 095b偲ぶ... 095cよそが...
一語履歴 vol.094
学びこそ... 094a世界一... 094bおせっかい... 094c僕が看取った...
一語履歴 vol.093
意味がある... 093a掃除は... 093b焦点を... 093c13年...
一語履歴 vol.092
カナヅチ... 092a小が... 092bある幼稚園... 092c水深... 092d平凡な...
一語履歴 vol.091
やめたら... 091a本当の心... 091b土壇場... 091cおいしい酒...
降りかかる逆境と試練が
     私の人生の花を咲かせた
      塩見志満子(のらねこ学かん代表)

愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という
知的障碍者のための通所施設があります。
ここを自費で運営し、ハンディのある人たちの
人生の花を開かせている塩見志満子さん。

――そこから学かんの立ち上げまでは
  どのように進むのですか。

一つのきっかけとなったのは私が38歳の時に、
小学2年生の長男を白血病で失ったことです。

白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。
「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。

そうすると痛みが少し和らぐ。
それを繰り返すわけですよ。


ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、
そんなこと言う子じゃないんですが
「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。


主治医の先生は30代のとても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。

長男はその2か月半後に亡くなりました。
49日が済んだ後、主人と2人、
お世話をかけたその主治医の先生に
御礼を言うために病院に行きました。

ところが、いらっしゃらないんです。

聞いてみたら、長男が死んだ後、
「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」と
すぐにその病院を辞められたと。

私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、
この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと
申し訳なさでいっぱいでした。

後で知ったのには、その先生は10年間
アメリカで小児がんの研究をした後、
小児がんの権威となり日本の国立小児病院に帰ってこられたそうです。

いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。

――そうでしたか。

長男が小学2年生で亡くなりましたので、
4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、
私たちは

「ああこの子は大丈夫じゃ。
 お兄ちゃんのように死んだりはしない」

と喜んでいたんです。

ところが、その二男もその年の夏にプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。

長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。

――プールの事故で突然……。

近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」と連絡があって、
タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。

子供たちが集まってきて
「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。

「どうしたんや」と聞いたら10分の休み時間に
誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと話してくれました。

母親は馬鹿ですね。

「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、
 学校も友達も絶対に許さんぞ」

という怒りが込み上げてくるんです。

新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が
大泣きしながら駆けつけてきました。

そして、私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。

「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。
 犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、
 過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、
 という罪を背負って生きてかないかん。

 わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、
 わしら2人が我慢しようや。
 うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、
 校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、
 学校も友達も許してやれるやないか。
 そうしようや。そうしようや」

私はビックリしてしもうて、
この人は何を言うんやろかと。

だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、
仕方がないと思いました。

それで許したんです。友達も学校も……。

――普通の人にはできないことだと思います。

こんな時、男性は強いと思いましたね。

でも、いま考えたらお父さんの言うとおりでした。

争うてお金をもろうたり、
裁判して勝ってそれが何になる……。

許してあげてよかったなぁと思うのは、
命日の7月2日に墓前に花がない年が1年もないんです。

30年も前の話なのに、毎年友達が
花を手向けてタワシで墓を磨いてくれている。

もし、私があの時学校を訴えていたら、
お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった。

そういう人が生活する町にはできなかった。
心からそう思います。

――宝物のような我が子を2人も失うという大変な逆境を、
  よくぞ乗り越えてこられましたね。

でも、この苦しみは抜け出そうと思っても
なかなか抜け出せるものではありませんでした。

その後、人生のパートナーであった
ご主人も交通事故で他界。

自分を一番近くで支え続けてきた最愛の人を失います。

塩見さんはその絶望的な状況をいかにして乗り越え、
いまも前を向いて歩み続けている。
 
2014.06.14

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