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      次代に輝く住まいを創る

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一語履歴WORD vol.475

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その時の手の温かさを忘れない

ポーランド、苦難の歴史
平成23年の夏休みのこと。
岩手県と宮城県の中高生30名がポーランドに招かれ、約1ヶ月滞在しました。
「絆の架け橋プログラム」という支援でした。
実は、その16年前の平成7年にも日本の小中学生がポーランドに招待されています。
前者は東日本大震災、後者は阪神淡路大震災で大きな痛手を受けた子供たちだったのです。

多くの日本人にとって「遠い国」との印象を抱くポーランドの人々が、
なぜ日本の子供たちをここまでいたわってくれるのでしょうか。
その背景には先人の残した偉大な遺産と日本・ポーランド間の固い絆があったのです。

歴史的背景を説明しましょう。
東ヨーロッパの伝統的な王国ポーランドは、1795年に
ロシア・オーストリア・プロイセンによって3分割されて、すべての国土を失いました。
独立運動に関わって逮捕された愛国者たちは、
家族もろとも流刑地シベリアに続々と送られました。
その数は十数万にも上り、彼らは独立の日を夢見て、
飢餓や伝染病、凍死の恐怖と闘い続けてきました。

かわいそうなことに、この過程で親を失った孤児が数多く生まれていました。
苦節なんと130年。1919年(大正8年)、第一次世界大戦終結時のヴェルサイユ条約によって、
ようやくポーランドは独立が認められます。
虐げられ続けたポーランド人たちは歓喜に湧き立ちました。

ところが、直後の1920年4月、ソ連とポーランドの間で戦争が始まったため、
唯一の帰国手段であるシベリア鉄道が止まり、祖国に帰れなくなってしまったのです。
この事態に直面し、ポーランド孤児たちを保護していた
救済委員会は欧米諸国に救援を要請しました。
「せめて、シベリアに残された孤児だけでも助けてもらえませんか」
この懇願に応え、ポーランド孤児たちに救いの手を差し伸べたのは、
どこの国だったでしょうか。
日頃、正義や人道を振りかざしていた欧米諸国は、ことごとく拒否してきたのです。
飢えと病気に苦しむ孤児たちは、絶体絶命の危機に直面しました。

ポーランド孤児を救出せよ!

そんななか、「よし、手を貸そうじゃないか」と名乗り出た国が一つだけありました。
それが日本でした。
外交官の武者小路公共(きんとも・武者小路実篤の兄)が素早く対応しました。
そして、日本赤十字社とシベリア出兵中の陸軍兵士らが直ちに救出に乗り出しました。
その間、なんと要請からわずか17日です。

孤児だったダニレビッチ氏はこう語っています。
「街には飢えた子供があふれていました。
その子たちは、日本の兵隊さんを見ると
『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』とせがむのです。

日本の兵隊さんは優しかった。私もキャラメルをもらったことがあります。
孤児の中には空腹で雪を食べている子供もいました。
シベリアはもう、まったくの地獄でした」
そもそも広大なシベリアで、
放浪する孤児を探し出すことがいかに困難なことかは容易に想像がつきます。
しかし、日本赤十字と日本軍は「事態は一刻の猶予もない」と、
酷寒のシベリアで鮮やかな救出劇を繰り広げました。
そして、保護した孤児をウラジオストクまで運び、船で次々と日本に送り出しました。
3年間で救済した孤児は765名にも上りました。

孤児の年齢は12歳頃が最も多く、上は16歳で下は2歳の女児でした。
皆、痩せこけて血色も悪く、服や靴もぼろぼろでした。
収容施設では、衰弱した大量の孤児を看護師が付きっきりで看病しました。
手遅れと思われた腸チフスの少女を担当した松沢フミさん(当時23歳)は、
「この子には看てくれる父も母もいない。死んでも泣いて悲しんでくれる親はいない。
死を待つほかないのなら、せめて自分の胸で死なせてやりたい」と
毎晩、少女に添い寝しました。
当時、腸チフスは罹ったら死に至る感染症として恐れられていましたが、
甲斐あって少女は奇跡的に回復します。
しかし、松沢さんはチフスに冒され、亡くなりました。
異国の不遇な子供に命を捧げたのです。

ポーランド孤児は、日本国民の大きな同情をよびました。
寄付金を申し出る人は引きも切らず、慰問の品を持ち寄る人、
無料で歯科治療や理髪を申し出る人、学生の音楽サークルが慰問に訪れ、
慈善団体が子供たちを慰安会に招待しました。

見舞いに来た日本人の子供は、孤児たちのあまりにも惨めな服装を見て、
やおら自分の着ていた服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボンや櫛、飾り帯、指輪などを取ってポーランド孤児に手渡したりしました。
こんなことは一度や二度ではなく、頻繁にあったといいます。

皇后陛下(貞明皇后)も日赤病院の孤児たちを見舞われました。
貞明皇后は3歳の女の子を抱き寄せ、
「大事になさい。健やかに育つのですよ」とおっしゃりながら、
その子の頭を何度も撫でて慈しみました。

当時、孤児だったヘンリク・サドスキさんは
「皇后陛下に抱きしめてもらったことが忘れられない」と、
母のような貞明皇后の姿が今も鮮やかに目に浮かぶと言っています。

こうして孤児らは健康を取り戻し、
回復した子からポーランドに送り届けることになりました。
ところが、出航の直前、孤児たちは乗船を嫌がったといいます。
どうしてでしょうか。
日本に来るまで人に優しくしてもらった経験がなかった孤児たちにとって、
親身に世話をしてくれた日本人は、すでに彼らの父となり母となっていたのです。
そして、見送る日本人に対して泣きながら「アリガトウ」を繰り返し、
滞在中に習い覚えた「君が代」を斉唱して感謝の気持ちを表したといいます。

また、航海中のことです。日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回りました。
一人ひとり毛布を首まで掛けては、
子供たちの頭を撫でて熱が出ていないかどうかを確かめていたのだそうです。
ある孤児は、「その時の手の温かさを忘れない」と回想しています。

高尚な国民
では、平成の時代。駐日ポーランド大使館に勤務していたフィリペック氏は、
この壮大なドラマを知って「いつか日本に恩返しをしたい」と願っていました。
平成7年、阪神淡路大震災が発生した際、
ポーランド政府は直ちに日本への救援に入ってくれました。
そして、日本支援の一環としてフィリペック氏は
日本の震災孤児たちを自国に招いて激励してくれたのです。
これが冒頭の「絆の架け橋プログラム」の始まりです。

かつてポーランド極東委員会の副会長だったヤクブケヴィッチ氏は、
大震災に打ちひしがれる日本人に向けて『われらは日本の恩を忘れない』と題した
次のようなメッセージを発しています。

「我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、
心より憐憫の情を表してくれた以上、
我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。……
ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、
我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に知っていただきたい。
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
最も深い感銘、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい」(抜粋)

大正の日本人は何の見返りも求めずに最善を尽くし、孤児を一人も死なせませんでした。
知る人ぞ知る大の親日国ポーランドの親愛感情の原点は、
この大正時代の名も無き日本人たちの崇高な行為が発端です。

一方のポーランド人も、「受けた恩を忘れない」という感謝の想いを持ち続けました。
その高尚な想いは、二度の大震災で
ポーランド国民が示してくれた惜しみない支援事業につながっています。
私たちはともに美しい善意の絆で結ばれた「高尚な国民」なのです。

「国民性」というものは各国各様です。
震災時に表れた冷静で思いやりのある日本人の態度は日本人の国民性でしょう。
また、外国人を魅了する親切とおもてなしの心などもそうでしょう。
コロナ禍の中、政府の命令がなくても粛々と
自制的な行動を取った日本人が多かったこともそうと言えます。

このような日本や日本人の素晴らしさを題材にして、
日本のことを誉める教材を嫌う教師がたくさんいますが、
それはちょっと違うんではないかな、と思います。
義務教育の段階で望ましい「国民のあり方」を教えることは、
公教育に課せられた使命のひとつではないでしょうか。

大正時代の日本が国を挙げて取り組んだ孤児救出事業から、
真の国際交流のあり方と気概のある日本人の姿を学び、
心を震わすことは精神の成長にとても大切なことなのではないでしょうか。

そうして、青少年が今の自分を振り返って、自分に気品ある優しさはあるだろうか、
そんな人になれるだろうかと考えることって大事だと思うのです。

2020.06.05

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